機会を逃すな : Downloaded from http://god21.net [御言葉]鄭明析牧師 [本 文]イザヤ書55章6~9節 6)あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。 7)悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。 8)わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。 9)天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。 伝道の書3章11節 11)神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。 ハレルヤ! 永遠でいらっしゃる聖なる父神様の愛と御子の平安を祈ります。 <機会>はそれぞれの人に「次元とおりに、個性とおりに、行なったとおりに」さまざまに来ます。過去10年、20年、30年間祈って願っていたことが、たちまちのうちに機会になって来たりもします。みんな経験したとおり、機会は頻繁に来るのではありません。 機会をつかむためには、それに関する常識、技術、知識、力、能力、計画がなければなりません。 <祈り>は「機会をつかめる最高の能力であり、力であり、知恵であり、知識」です。だから、機会をつかむためには祈りが必ず必要です。「時間と技術」がなければ、小さい機会もつかめません。 神様は地球上のすべての人たちをあわれんで、誰にでも機会をくださいます。その機会は絶対に逃してはいけません。 すなわち、神様はすべての人々に「神様を信じるようにする機会」を必ずくださいます。この機会が、一生のすべての機会の中で一番大きい機会です。また、各自が個性とおりに願いをかなえるようにと機会をくださいます。 "機会は誰にでも来ます。しかし、ある機会は1秒の時間を与えて過ぎ去り、ある機会は1分の時間を与えて過ぎ去り、ある機会は1日を与えて留(とど)まって去り、ある機会は1ヶ月を与えて留まって去り、ある機会は1年を与えて留まって、機会が去ってしまいます。その時、機会をつかめなければ永遠にできません。ある機会は一度機会を逃したら、その次にまた機会が来るけれども、その時は違う方法で来るので、分かりづらいです。” 機会は瞬間、過ぎて行くから、機会をつかむためには、勤勉で熱心で熱烈でなければなりません。怠けている人は機会をつかめず、全部逃します。勤勉なときに悟るようになります。 <機会の豊作の期間>があります。この時は、一度機会が来たら、個性とおりに各分野別に、豊作のように続けて機会が来ます。だから、すればするほど栄えるし、すればするほどうまく行きます。 機会はその位置、その段階に行(い)って、出会うようになります。1年を見ると、季節ごとに<季節の機会>があります。その都度「すべきことをする通りに」機会をつかみます。<季節の機会>は繰り返して来ますが、<時代の機会>と<個人の機会>は繰り返して来ても、同じく来るのではなく、「次元を上げて」来ます。だから自分がもっと次元を上げて生きてこそ、機会をつかみます。 人が神様と御子主の前で「機会」を作ってこそ、神様も御子主も速く行なわれます。 御子主も機会を見て来られるから、祈って、御子主に心の門を開けて、機会を作ってさしあげなければなりません。そうしたら、御子主が機会を見ていて、その瞬間、働きかけ、行なわれます。 機会が来たら、考えが感動をおぼえて、行なうようになり、霊感も来るし、肉感も来ます。状況が整います。神様と聖霊様と御子主も行なわれます。その時が機会です。その時にしなければなりません。機会が来たときに万事を差し置いて、最優先権に行なわなければなりません。 自分の機会のときに合わせるのではなく、御子主の機会のときに合わせなければなりません。相手を目的とした機会は、相手に合わせなければなりません。<御子主の機会>は、自分中心を捨てて、自分の認識と思考と哲学を捨てて、迎えなければなりません。 見た時が機会であり、聞いた時が機会であり、近くにいる時が機会です。 みんなこの機会を逃さずに、勤しんで熱烈に行なって、機会をつかんで行なうことを、御子主の御名によって祝福します!