3文(もん)コラム by BON局長

BON局長がお届けする3文(もん)コラム!3文くらいの安っぽい文章の実力ですが・・・世の中の言葉で解いた主日の御言葉をアップします。

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「最後」を決定した人


簡潔で明確な生が持つ「力」

「最後」を決定した人


雨雲を恐れない鷲のように、雷の音にも驚かない虎のように、

そうしてただ自分の道を自ら進んでいくべきでしょう。



 

立体的人物の典型、ペテロ
ペテロは、実に立体的な人物のひとつの典型です。

『わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』

瞬間のうちに受けた感動によって、網(生涯の職業)を投げ捨て、その場でイエスに従い始めました。そして、イエスに「永遠の命の言葉をもっているのはあなたです。わたしが一体、他のだれのところに行くでしょうか」という告白までしました。しかし、ペテロも、ローマ軍に連行されるイエスの後姿を見守りながら、自分がイエスの弟子であることを自ら三回も否定します。「死」に対する恐怖が、それまでに受けていた聖霊の感動を上回ったからでしょう。

まもなくして人間的な自責感に悲しく泣いてひどく嘆き、その後「この先どのように生きるべきか?」と、独りで深い苦悩に陥ったことでしょう。再びガリラヤの海の漁夫に逆戻りしなければならない自身の生が、惨(みじ)めに感じられさえしたことでしょう。

しかし、死んだイエスの復活や昇天まで目撃してからは、もう揺れることはなく、十字架に逆さにつけられるまでして変わらずに「自分」の道(盤石、揺れることのないこの基盤に新歴史が立てられた)を進むようになります。
 

直線が持つ速度と力
直線は、任意の二点をつなぐ無数に多い点をつなぐ最短距離を示したものです。簡潔、明確であり、それが持つ「速度」と「力」が感じられるのが、まさにこの「直線」なのではないかと考えます。

イエスの復活や昇天まで目撃したペテロは、その時から「どのように生き、どのように死ぬか」を決定したのだと思います。現在の視点から最後の視点(二つの点)まで決定したペテロは、それ以上は躊躇することも無い、他の事を確認するための彷徨(さまよ)うことも必要ない、だからローマの十字架にまで迷うことなく「直線」を引く生を生きるようになりました。

生の最後の姿まで決定した人。彼らの生が持つ簡潔さ、明確さは、隣で見ているだけでもその速度と力が感じられるほどです。「神様の御心によってキリスト・イエスの使徒」へと生の最後の姿を決定したパウロの生がそうであったし、世界で一番聖三位を愛する人として自身の最後の姿を決定した鄭明析牧師の生もまたそうです。


自身が決定したその道を黙々と進め
皆さんには、まだ確認が足りていない事がなにかありますか?まだ躊躇しなければならない理由がありますか?そのようなものが無い状態で「自分の最後の姿」が明確に思い描かれるのなら、これからは直線の生を生きなければなりません。ただ、鄭明析牧師は、「生活をしているうちに、なおも罪が生じ、悩みもごみがたまるように生じる」とおっしゃいました。だから、天に向かって簡潔、明確で、真っ直ぐに生きることができるように、毎日毎日絶えず努力すべきであるということを力説されました。直線の生は、一度の覚悟で決定されるものではないということをおっしゃったのです。

さらに、「天の御旨通りに生きる」からといって、ただ天にすべてのことを押しつけるような生を生きるのもまた問題の生だとおっしゃいました。これは盲目的であるし、漠然とした生を生きることであり、まるで自分が愛すべき配偶者を、自分の代わりの他の人が愛してくれるのを期待している人と同じだとおっしゃいました。


粘り強く「自分」が定めたその道を、自分自らが諦めず直線を引いて進んで行く人達に奇跡が起こります。奇跡は、神様が人間たちに「行いなさい」とおっしゃったということ。それを行なうことが奇跡だと、はっきりと定義されました。


自分の生の最後の姿まで決定した人


雨雲を恐れない鷲のように、雷の音にも驚かない虎のように、そうしてただ自分の道を自ら進んでいくべきでしょう。その上に、聖三位の偉大さが増し加えられることでしょう。

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날짜
2016/04/05