3文(もん)コラム by BON局長

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考えを正しくできなれば天の歴史もシャーマニズムとトーテミズムになる

新約時代を導いていた使徒パウロは、神様とイエスを全く知らない異邦人たちを対象として宣教活動を広げていくよりも、神様を知ってはいるものの、神様が働かれる方法に対して「間違った考え」を持っていたユダヤ人たちと、「間違った考え」でイエスを知って聞き従うグノーシス主義者(霊知主義者、Gnosist)のような人々に接するところにより多くの力を消耗していたかもしれません。


「考えが完全でない」人々のせいで、彼が注いだ多くの活動と努力が「無用の長物」となってしまったことでしょう。


現代は、「脱宗教化の時代」と定義されたりします。


脱宗教化の重要な現象として、「世俗化」と「脱制度宗教化」を挙げる人がいます。

「世俗化」は、文字通り宗教が世俗化し、その本来の肯定的な影響力を喪失していくことを指し、「脱制度宗教化」は、宗教的観点において厳格に扱われていた「宗教的制度」の重要性が弱化する現象を指します。


今日、宗教の機能と権威が弱まりながら、「人々」との乖離が甚だしくなりつつあるのは、脱宗教化に対する「宗教」の対比(差違の認識)が不十分であるからとも考えられます。


そして鄭明析牧師は、数十年前からこのような時代に備えた牧会哲学を見せてくださり、実践なさった方です。


「十分の十」をも天の前に捧げたりもしましたが、ある信徒たちには、「お腹が空いているなら、献金するためのお金でパンを買って食べて教会に来るほうがましだ」とおっしゃいました。 誰よりも「聖守主日」に透徹である方でしたが、信徒たちの状況を聞いてみた時に、ある人には主日に職場で勤務するようにさせて、主日の御言葉を別途自分で見るようにしてくださったりもしました。 「(若い人たちが各自”持っている”ものと才能を)開発しなさい」という霊感を受けられた後からは、聖なる礼拝の壇上を、若者たちの芸術祭の舞台に変えることさえなさいました。

このことについて、世間から「極めて世俗化していて、厳粛な宗教制度を無視する集団」と批判されたことも事実です。


ですが、わかってみると、脱宗教化と現状に対する予知的措置をとりながら、新しい宗教の機能と形式を潜在的に提示したものであったということができます。


鄭明析牧師の「世俗化」は、天の御旨を世の中で実践する過程であり、「脱制度化」という合理的理性に従う新しい実践論理を提示した過程だったのです。


やはりその結果として、今日のキリスト教福音宣教会は、真の宗教の姿を最も純粋に維持している宣教団体となりました。

すべてのメンバーが厳格に酒やたばこを禁じ、婚前純潔と明け方の祈りを厳守することを実践しています。


また、他のどの団体よりも、神様との「疎通」をとことん追求していて、その御旨をわかって実践することで天を自分から先に愛することに人生の価値を大きく見出しています。


もちろん、宗教の本来の姿を維持し、拡大させようと努力する人の中にも、一部間違った考えを持っている場合があります。

天と「疎通」をするといいながら迷信的な行動に陥ったり、自分がただ悟った事を「天の御言葉」といって主観的盲信に陥ったりする憂慮がある場合もあり得るでしょう。


天との疎通を願い求める人は、一般人と比べて二倍以上の努力が必要です。 「御心」を悟ったなら、そのためにより多くの人たちと会い、彼らの話を聞いて、教会だけでなく図書館にも立ち寄って本を見ながらもっと客観的で分析的にその御心を「世俗化(肯定的な意味において)」するために努力しなければなりません。 このような努力による支えが無ければ、まるで自分から「シャーマン(Shaman)」のような人になろうとすることになり得るのです。


シャーマンは、非理性的な状態において、超自然的存在と接続しようとする人のことをいいます。 神様は全知全能、無所不在でいらっしゃるお方です。紛れもなく、私たちが判断できる範囲を超越した存在であるに違いないのです。 だからといって、合理的理性を捨て去って神を探してしまうのなら、もっと荒唐無稽な状況に至るだけです。 合理的理性も、神が人間に賦与なさった、あなたが探し求めて来てくれるように賦与した神からのプレゼントなのです。


たとえ少数だとしても、シャーマン化現象が始まると、幸福祈願(祈福)のために優れたシャーマンを求めて噂を辿ってまわるのと同じように、「御言葉に対する自己化(現実化の一種であるIncarnationまたは世俗化)」の努力もせずにあちこち「良い御言葉」を探してばかりいる人々が同時に量産される恐れもあります。 言葉の通り、天の歴史はシャーマニズムになりかねないということです。


また、信仰活動において、特定の時間、特定の場所だけを強調することはトーテミズムに陥る恐れがあります。鄭明析牧師は、聖書のダニエルのように、一日に三回、時間を定めてかかさずお祈りをされています。 一日中天の仕事に埋もれて生きていらっしゃるから、仕事に溺れてしまわないように、特別に時間を裂いて分けておき、天と対話しようとする最小限の装置と制度を自らつくられたのです。


しかし、一部の人々は「特定の時間」、「特定の場所」を度が過ぎるほど強調し、それ自体が信仰の基準になった傾向を示しています。そのため、その時間、場所を守る人とそうでない人に区分して、一種の差別をもすることがあります。 特定の「時刻」という基準は、限られた地域に生きている狭い時刻においてその「時刻」の意味があるのであって、地球村全体の話としてみるならば(天の観点)、それが何時であれ該当時刻であるところが必ず存在します。 絶対的に「教会」という場所でだけ祈ることを重視することも、考えが狭いといえるかもしれません。神様を、数十坪あるいは数百坪程度のコンクリートの建物の中に留まる存在(一種のTotemism)として錯覚してはいけません。


エルサレム聖殿の外では礼拝を捧げられないのかと尋ねたサマリアの女に対し、どこででも「霊とまこと」とをもって礼拝するのが重要だと記録されている御言葉を忘れてはいけません。 山での祈りが重要なのではなく、生きている祈りに意味があるのであって(※1)、何時にどのくらいの間祈ったのかが重要なのではなく、どれほど真心の込められた祈りをしたかが重要なのです。 (※1…韓国語で「山」と「生きている」というのは同じ音『サン』を用いており、掛詞となっている)


私たち人間の考えは、狭く、小さいものです。考えが小さくて狭い分だけ、人生も信仰も窮屈で疲れるようになります。


鄭明析牧師の比喩の通り、「考えが狭く、黄金の馬車が通れるような道をつくれずにいるから、自分の足で歩き回るしかない人生」を生きているのと同じことです。


考えの次元を上げなければなりません。神の立場、神の観点で考えることができるようになった時、偉大な天の歴史の基盤の上に立った「使徒」の姿を手に入れることができることでしょう。


刃の上に乗っているシャーマンの姿ではなく(※2)…


(※2…韓国で、シャーマンはワラや草を刈る道具の刃の上に素足で立ち、怪我をしない自身の姿を見せることでシャーマンとしての能力を周囲に示したりすることがある)

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날짜
2016/10/31