[エッセイ]
肉体が年を取り健忘症が進むことは
自然の順理に従う部分ではないかと、自らを慰めた。
最近、私を恐れさせる症状を「ポスト健忘症」と説明したらよいだろうか?
健忘症がひどくなり、忘れているという事実さえも忘れてしまって、ちょうど、コンピューターから間違って削除したファイルを入れるゴミ箱までなくしてしまったように、対策のない状況がしばしば生じる。
冷凍庫の掃除をしている途中、ジップロックの中から、キルトの財布を作ろうと思って買っておいた布切れと付属品が出てきた時、既にワンシーズンが過ぎたし、針仕事は見るのも嫌なほど老眼が進んでいた。
隣人のある方は、高速道路のサービスエリアで使ったカードを失くしたという事実に、1週間経ってから気付いて申告したら、2万ウォンだけが引き出されていて幸いだったと、むしろごちそうしたりもした。
『<人間の無知>は二つだ。<知らない無知>があるし、<知っていたのに忘れてしまった無知>がある』という説教の部分が浮かび、
「お~、主よ。<知っていたのに忘れてしまった無知>という新バージョンの無知に陥らないように、精神をもっと集中するようにさせてください」と祈るしかなかった。
聖書に無知だったペテロが、ひたすら御言葉でイエス様をキリストと認めたのに対し、聖書に明るかったユダヤ人たちが、自分たちの観点で彼にくぎを刺したのではなかったか?
分かったけれど、忘れたことが招いた結果だ。
知らなかったことを悟ることも重要だが、分かっていたことの価値を喪失しないことも非常に切迫した問題だ。
それに比べると、肉体が年を取り健忘症が進むことは、自然の順理に従う部分ではないかと、自らを慰めた。
事実、難治性疾患になってしまった私の健忘症が、最近は、頭を平安にしてくれるということを認めるようになった。
無駄な心配や気掛かりなことは忘れて、没頭していた問題は主に委ねて楽に心を空けるようになった。
創造主が創られた人間の脳だから、意味のないことはないのではないかと思う。
もちろん、私の「ポスト健忘症」の症状が初めは激しいショックを与えたりはした。
だからなのか、ある先輩のお母さんが牧師さんに「牧師さん、なぜ人はこんなになるまでしわくちゃに老いなければならないのでしょうか?」と質問したことが、最近思い出された。
年を取っていくという事実がつらくなる時だったのだろう。
その時、牧師は「そうしてこそもったいなくないでしょう。」と答えられた。
「あ~、そうなのか。 いい革のかばんも、ひびが入るまで使ってから捨ててこそ惜しくないように、神様は私たちに立派な肉体をプレゼントしてくださったのだな」と20代前半だった私はそのように理解した。
憂鬱(ゆううつ)な心情で、病気になって弱くなる肉体の限界に悩む人に対して、青春の美しさは失ったけれど、それほどまで未練なく肉体を使う人生の目的があるということを教えてくださった牧師の答えは、今考えるともっと心にしっくりくる。
私たちは神様の観点とは異なって、自分を中心に「必要なこと」と「忘れてはいけないこと」を定義しているのではないか?
しかも神様が目的とされたことを成す人生に、必要がないことや、むしろ忘れれば有益になることはこれ以上「無知」の範疇(はんちゅう)に入らないから。
冷凍庫から発見したキルトのパッケージは、私のキルト小物をうらやましがっていた妹に渡し、カードを紛失していた隣人は、もっと十分な出費でお世話になっている友達をもてなして神様に感謝した。
今日も何かを必要以上に忘れないように、貴い脳を苦しめていないか、神様が創られた人生の大切な価値を忘れないようにする<感謝>と<喜び>、<希望>と<愛>が私の中にとどまっているのか、確認して、また確認することだ。