[御言葉] 鄭明析牧師
[本 文]
歴代志下35章20~25節
20)このようにヨシヤが宮を整えた後、エジプトの王ネコはユフラテ川のほとりにあるカルケミシで戦うために上ってきたので、ヨシヤはこれを防ごうと出て行った。
21)しかしネコは彼に使者をつかわして言った、「ユダの王よ、われわれはお互に何のあずかるところがありますか。わたしはきょう、あなたを攻めようとして来たのではありません。わたしの敵の家を攻めようとして来たのです。神がわたしに命じて急がせています。わたしと共におられる神に逆らうことをやめなさい。そうしないと、神はあなたを滅ぼされるでしょう」。
22)しかしヨシヤは引き返すことを好まず、かえって彼と戦うために、姿を変え、神の口から出たネコの言葉を聞きいれず、行ってメギドの谷で戦ったが、
23)射手の者どもがヨシヤを射あてたので、王はその家来たちに、「わたしを助け出せ。わたしはひどく傷ついた」と言った。
24)そこで家来たちは彼を車から助け出し、王のもっていた第二の車に乗せてエルサレムにつれて行ったが、ついに死んだので、その先祖の墓にこれを葬った。そしてユダとエルサレムは皆ヨシヤのために悲しんだ。
25)時にエレミヤはヨシヤのために哀歌を作った。歌うたう男、歌うたう女は今日に至るまで、その哀歌のうちにヨシヤのことを述べ、イスラエルのうちにこれを例とした。これは哀歌のうちにしるされている。
コリント人への第一の手紙2章8節
8)この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる聖なる父神様の愛と御子の平安を祈ります。
今日は人が生きていく中で一番無念なことは何かについて伝えます。人々は生きていく中で、大きくあるいは小さく、無念な思いをします。それで心が悔しくて、怒りを爆発させて、いつも「無念だ。悔しい」と言います。
詐欺にあってお金をとられたり、信じていた人に裏切られたりもします。無念な思いはいろいろな形でします。人は、「知るべきことを知らないこと」、「すべきことが分からなくてできなかったこと」が本当に無念なことです。分かったら、行なって、苦痛を受けないし、祝福を受けて、喜んで感激して生きます。
そのことが分からなくてできないことで、色々な苦痛を受け、苦労し、死亡に行き、その霊が永遠な地獄に行って生きるようになります。だから、すべきことが分からなくてできないことが、本当に無念だということです。
過ぎた日に自分が行なったことを思い出してみてください「知るべきことを知らなくてできなかったこと」がどれほど多かったか、考えてみて下さい。
「分からなくて行なえなくて」得るべきものを得られず、「行なったけれども、何をすべきかが分からなくて、無駄なことばかりを行なって」、散々苦労はしても、願っていることは成就できず、お金の投資・時間の投資・物質の投資・体の投資をしたのに、100%のうち1%も役に立たず、無駄な苦労で終わりました。
知るべきことを知らないことが本当に無念なことです。だから、「知るように」主に学び、祈らなければなりません。
「この時代に最高に知るべきこと」と「この時代に絶対に知らなければならないこと」はすなわち<御子主の再臨と引き上げ>です。このことを知らない人は永遠に無念な人です。
知る人が祝福です。知ることが一億千万金の黄金を得ることです。
神様と聖霊様と御子主の御心を分かって行い、二度と無念な思いをせずに生きることを祝福します。