[御言葉] 鄭明析牧師
[本文] マタイによる福音書25章5~12節
5)花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。
6)夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。
7)そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。
8)ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。
9)すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。
10)彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。
11)そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。
12)しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。
ルカによる福音書23章39~43節
39)十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。
40)もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
41)お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
42)そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
43)イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる聖なる父神様の愛と御子の平安を祈ります。
人間はあちらとこちらの「両極」のうち、どちらかの極で生きていきます。
熱心に行なう人は極的に熱心に頑張って、「熱心の極」で生きるし、怠け者は極的に怠けて、「怠惰の極」で生きます。
人間はどの方面で生きても、よくも悪くも「極」に置かれて生きるので、心も体もその「極」に置かれて楽しんで生きます。
だから善と悪を分別できずに、「全部いい」あるいは「全部悪い」というふうにして生きます。善と悪を見分ける人は「これは悪い。あれはいい」と見分けます。それで、いいことと悪いことがはっきり分かります。
人間は今、両極のうちのどちらかで生きています。こちらの極でなければ、あちらの極で生きています。
人間は極的に肉的に生きても楽しく、極的に霊的に生きても楽しいです。だから「霊的な極の生」を生きていても、すぐに「肉的な極の生」を生きて、良く過ごせるのです。しかし実際は「霊的な極の生」を離れたので、その魂と霊は根を抜かれた木と同じです。
今日の御言葉を聞いて、みんな「霊的な極の生」を持続しなければなりません。
「<霊的な極の生>を生きるか、それとも<肉的な極の生>を生きるか」ということは、すべて「心と考え」で左右されます。だから心の梁を取り除き、心を完全にして完全に行わなければなりません。
両極の生の中で、みなさんはどちら側で生きていますか。人生はいつも天の愛の極で生きなければなりません。毎日、毎時間、何をしても、御子主と一体になって極的な生を生きてはじめて、生の中で主の主管圏を外れなくなります。
「人間は極で生きる」と言った言葉を肝に銘じ、いつも平素の生活で絶対に御子主の側の極の生から外れないことを祝福します。