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エペソ人への手紙4章15節
愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる聖なる父神様の愛と御子の平安を祈ります。
自分は責任を果たせなくて諦めてしまったけれども、御子は諦めず、その不憫な姿を見て、愛しているから、再びできるチャンスを与えて、やらせます。
人は、できる可能性があれば、諦めません。できる可能性が少ししかなくて、不可能だと判断したら、諦めることもあります。しかし、ほとんどすべてが不可能だから、諦めるしかないのです。
10人の人が運動場を走っています。最初はみんな、一番になることを諦めないで走ります。そうして自分の間違いで問題が起こって転んだ人は、完全に走ることを諦めて走りません。
そして走りながらも、諦めて走る人たちがいます。二番で走る人は、一番の人とだいぶ距離が開いたら、初めから一番は諦めて、二番にでもなろうと思って走ります。三番で走る人は、初めから二番は諦めて、三番にでもなろうと思って走ります。四番で走る人は、初めから三番は諦めて、完走でもしようと思って走ります。このように、後ろになると前の位置は諦めて走ります。
このように、やることはやるけれども、自分にとって可能性のないことに対しては諦めて生きているということです。
自分は諦めたけれども、御子とその肉である救い人は諦めず、再び機会を与えてやらせるから、自分がやったことではなく、御子とその肉が行なったことになります。このことをはっきりと悟って、御子とその肉を頭にして生きなければなりません。
初めは「御子を頭にして、その肉になって行なおう!」と言ったのに、いざ実践するときは自分の人性で自分が頭になって行ないます。
自己中心、自己高慢、自己無知を悟って、毎日、毎時間、尋ね、祈り、答えをもらって行ない、御言葉を聞いて、その通りに行なう、御子を頭にして生きる生を生きなければなりません。
みんな御子の考えで、諦めずに、もっと高い次元に向けて挑戦して行なうことを祝福します。