[御言葉] 鄭明析牧師
[本 文] ガラテヤ人への手紙6章9節
『わたしたちは、善を行なうことに、うみ疲れてはならない。
たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。』
(韓国語聖書:
『わたしたちは善を行なうが、落胆すべきではない。
あきらめなければ、時が来て刈り取るようになる。』)
自分自身や、命や、自分の子を管理し教える時、<穀物>や<さまざまな果樹>だと思って接しなければなりません。教える時、育てる時、管理をする時、腹が立つからといって、大変だからといって、うまくいかないからといって、気持ちを痛めつけられたからといってやめることなく、その時、持続的に水をやり肥料を与えるように、そのようにしなければなりません。
<穀物の農作>をいつまでし、<果樹>をいつまで育てますか?穀物と果実を刈り取る時までです。農作をするように、果樹を育てるように、刈り取る時まで、手も、心も、目も離さず、持続的に!最後まで!極まで!何としても!やるとき、より良いものをもらうようになります。
これがまさに「行なった人」であり、「心と思いと命を尽くしたこと」です!結局、<行なった人>は「攻撃する生」を生きるようになり、<行なわない人>は「攻撃される生」を生きるようになります。
毎日行なってください!行なってこそ、「問題」が解決します。ただでは「問題」が解決しません。生活の中でも「生活の敵たち」がいるから、やはり行なうことで攻撃して解決するようになります。
極で熱く最後まで行なえば、最初に願っていたものより、「もっとよいもの」を得るようになるから、チーターのように極に走り、鷲のように極に飛んで行なうことで、最初願っていたものより「もっとよいもの」を得、<ウサギ>を追いかけているうちに<鹿>に会って捕まえてきて、<鳥>を追いかけているうちに雉(きじ)に会って捕まえてくる御働きが起こることを主の御名によって祝福します!