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[ヘッドラインニュース] 新しい真理の伝播のために努力するキリスト教福音宣教会設立者鄭明析総裁

 

 

今日の韓国キリスト教界は『教会が志向すべき方向と目標、聖書の御言葉とそれに対する責任、本質的なことと非本質的なことを区分する洞察意識、歴史意識』などにおいてコペルニクス的な大転換が要求される。このような状況で、鄭明析総裁はこの時代に合う新しいキリスト教的ビジョンの提示を試みている。

 

昼耕夜読しながら、30年余りのあいだ祈りの生活を通じて主を迎える

 人々は目に見える有形をより重視する傾向があるが、目に見えない無形が有形より数十倍、数百倍以上重要な意味を持ちうる。目に見えない無形があることで目に見える有形がはじめて意味を持ち、価値を発揮する例を聖賢たちの伝記で数え切れないほど多く目撃するからだ。

 キリスト教の福音をこの地に実現する忠実な使役者として牧会者に必要なことは学位や肩書、地位の華やかさではない。

 外形的な虚勢よりは、彼が率いる羊の群れを誰よりもよく世話し、羊の群れの苦痛や悲しみ、人生の哀歓について誰よりも詳しく知り、彼らと共に時間を過ごし、分かち合いの精神を生活の中で実践できる資質だ。10軒ごとに教会の十字架が見えるほど数字的には盛大だが、キリスト教の教理は光を失い、神様が離れたエリ祭司長のような状況にある。さまよう時代に神様の真理に新しく照明を当てようとする鄭明析総裁のメッセージはこういう点で説得力をもって迫って来る。

 

▲キリスト教福音宣教会 鄭明析総裁

 

新しい聖書観の提示

 宗教の究極的な存在理由は、人間を正しい道に導き、社会的に疎外されている階層を温かく包み抱くことで、社会構成員みなが幸せにつつがなく生きられるようにすることだ。鄭明析総裁は信仰の習得過程で『宗教は雄大な理論ではなく、生活になるべきこと』を自ら悟り、実践した人だ。

 「究極的な祈りの生活においてイエス様に直接会うようになり、イエス様を恋人のように迎え、仕えながら、天に仕える道理と命の救いの知恵、真理を受けました。私の唯一の師匠はイエス・キリストであられたし、神様であられたし、聖霊様であられました。ただ神様、ただイエス様の思想と精神で神様とイエス様を愛し、仕えることで、天の心情と証の道を悟るようになりました。」

 33歳になった1978年の1月、修道生活を終えて下山した鄭総裁は、同年5月末、それまで天から受けた御言葉を集大成したノートの原本と1200ページの図表を包み、背負って上京し、若い青年たちを中心に宣教に邁進した。

 「歴史も時代に従って変遷してきたことを私たちは否認することができません。韓国のキリスト教が宗教的根本真理とは関係なく、単純で盲目的な祈福(訳注:福を祈ること)主義や神秘主義に没頭し、独断的な教理に盲従する時、一般大衆にたやすく近づけるかもしれませんが、時代を救い、人間の霊魂を救い、神様の御心を実践するには役不足だと言わざるをえません。聖書を正しく理解するためには、比喩をちゃんと解かなければなりません。比喩をちゃんと解けば、天の秘密や神様の天地創造目的や、ひいては人間の生の目的も知ることができます。既成教会では聖書を時代性や科学性を考慮せず、文字的に、または教理に縛られて画一的に解釈するなど、聖書を読む観が間違っており、比喩と象徴で記録された聖書を正しく解くことができません。」

 

鄭総裁が直接描いた作品たち

 

21. 運命 / Fate

(1998. 9 Painting on Korean paper 97cm x 1.30cm) 

この作品は作家のひらめく霊感によって描かれた絵である。筆の熟練した筆力による寓話的な表現には強いメッセージがある。かたつむりが絶壁を上っていこうと必死になって上っている途中、落ちてはまた上り、落ちてはまた上り・・・何度も繰り返してようやく頂上まで上り、「ああ、ついに着いた」と腰を伸ばした瞬間、後ろからコウノトリがのっしのっしと歩み寄り、「お、えさだ!」としきりにつついて食べようとした瞬間を描いた、かたつむりの運命的な状況を表現した絵である。

 

 

14. 義人を探す神の目

(1998. 9 Painting on Korean paper 97cm x 1.30cm)

 

空の雲によって神様の顔を形象化し、炎のような目でこの世に義人がいないかと探していらっしゃる、義人を探す神の目を表現した。ソウルの背景を象徴的に右側から南大門と国会議事堂、工場の煙突、貿易センター、63ビルディング、ツインタワー、日の村で豊かに暮らす人々と月の村と貧しいけれどもっとも天と近く山の頂上で暮らす銀河の村に住む人々まで象徴的に表現した。しかし、南大門の前に碑石を立てておいて偶像を崇拝する人々がいる。彼らのうち、黒い尻尾のある人は猿であるが、偶像崇拝する人々は獣にも劣るという意味で描かれたのである。この世で義人がどこにいるかと気をもんで探していらっしゃる神様の目である。

 

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날짜
2005/06/01