뉴스_보도자료

[週刊人物] 新しい御言葉で時代の神様の御心を実現するキリスト教福音宣教会 設立者 鄭明析総裁

 

 

 

作品名:天と共に/20062

作品説明:鄭明析総裁が直接一筆描きで1分以内に描いた作品で、山と岩は神様とキリストを象徴したものであり、松の木は辛くても人生を節義をもって生きる人たちを示したものだ。海は世の中、カモメは平和、船の前方で運転している人は鄭明析総裁、後ろに乗っている人は彼についていく弟子だ…

キリスト教福音宣教会(総裁 鄭明析)

新しい御言葉で時代の神様の御心を実現する

キリスト教福音宣教会 設立者 鄭明析総裁

この時代の教会は大型化し、聖徒数も増えたが、若い青年たちはどんどん教会から離れているのが現実だ。これはキリスト教が明らかに生活の宗教であるにもかかわらず、知識と生活が一致しない苦しさを抱えているからだ。

 「私たちはイエスを信じるばかりではなく、イエスになる生き方をしなければならない。イエスを信じ、イエスを理解し、イエスに従って生き、その方に似ていくうちに、その方がいらっしゃる所に行かなければならない。この地で地上天国を成した人が結局天国に行くのだ。教会に熱心に通う分、また熱心に信じる分、生活の中で天の御言葉と教えを実践しなければならない。今こそそのように生きるべき時であり、天の完全な新婦としてそのように生きるよう互いに励まし努力すべき時だ。」キリスト教福音宣教会の創立者である鄭明析総裁はこのように教え、また自らもそのように生きて来た。

 

ただ天の愛で秘密の御言葉を悟った

鄭総裁の指揮は神様を感動させるに十分だ。

 

 鄭総裁は韓国民族が日本帝国の抑圧から解放された1945年、忠南錦山郡珍山面石幕里月明洞の村で61女の3男として生まれた。深い山奥に生まれ、貧困と進路の問題に悩んでいた鄭総裁は、人生の道を見つけるために、昼耕夜読(訳注:昼間は耕し、夜は読書に励むこと)し、30年余りのあいだ祈りの生活を通して聖書を実に2千回余りも読み、1年に1万人余りも伝道しながら、聖書の御言葉を生活の中で実践するためにもがいた。幼い時から神様とイエス様に狂ったかのように信仰生活をしてきた、というのは、故郷の人々の証言だ。

 記者が会ったキリスト教福音宣教会のペ・ジェヨン牧師は「鄭総裁は誰よりもメシヤでいらっしゃるイエス様の降臨を待っていた方だ。この世で最もイエス様を愛する人になることを決心した彼は、義をもって善良に生きようともがく過程でイエス様に直接会うようになり、イエス様に恋人のように仕えながら、天に仕える道理と命の救いの知恵と真理を受けるようになった。鄭総裁の唯一の師匠はただ神様とイエス・キリストであり、聖霊様だった。彼の人生はすべて神様とイエス様に対する忠誠と真実であふれている。だから、彼の一挙手一投足、すべての生活が、私たちに神様のことを伝えてくれ、イエス様の痕跡を感じさせてくれる」と証言した。

 山奥で生まれ、誰よりも不幸で、取るに足らないみすぼらしいだけの人だった鄭明析総裁。しかし、今やアジアをはじめとしてオーストラリア、ヨーロッパ、アメリカなど海外50余カ国から数多くの青年たちと社会指導層の人士たちが、世界的宗教指導者になった彼を訪ねて来ている。

 このように地球村の片隅で始まった天の歴史は、25年余りという短期間に、国内だけでも400個余りの教会を設けるようになり、海外50余カ国に20万の会員を有する福音共同体に急成長するようになった。このような点は神様が鄭総裁を通して成された御言葉の威力でなければ不可能なことだっただろう。

去る2月のソウル伝道集会に集まった宣教会の会員たちは皆が一つになり神様を讃美し、敬拝した。

去る2003105日、月明洞で開かれた秋の体育祭

 

天が下さった贈り物、哲学博士学位

 小学校しか出ていないが、文芸思潮を通じて正式詩人として登壇、『霊感の詩』というベストセラーを出したこともある鄭総裁。このような彼に、去る200111月、スリランカのユネスコ傘下のオープンインターナショナルユニバーシティ(The Open International University for Complementary Medicines)は哲学博士学位を授与し、多くの人々の目を引いた。

 特にこの大学は、以前だけを見ても、哲学博士学位の授与は必ず医学博士と心理学博士の学位を取得した人にだけ授与する、非常に特別で象徴的なものだった。過去には、世界で最初に水を凍らせた結晶体の形で評価する理論を確立してベストセラーを生み出した『水博士』の名声の所有者、日本人の江本勝博士がここで代替医学博士の学位を受けたこともある。この大学の前任校長であるコアベル教授は「鄭総裁から深奥な御言葉を聞き、鄭総裁が数多くの人々の脊髄を矯正してあげるのを目撃した後、彼に哲学博士学位を授与することに決めた」と伝えた。すでに鄭総裁は医学と心理学分野でも他の追従を許さないほどの実力を持っていると認められたのだ。

 結局、神様は宗教の畑にだけ閉じこもっている方ではなく、宗教の神様であり、科学の神様であり、哲学の神様であり、文学の神様であり、芸術の神様であられる。従って、これからはすべてのことの神様になられることを考え、神様の根本を悟って、多様な方面で自身を開発した鄭総裁のことを世界の碩学たちが次々に認めるだろうと展望される。

 

異端論争は偏見と無理やりな主張

 韓国の教会の主流神学が聖書を文字通りに信じて従う傾向が濃いのに反して、鄭総裁は聖書を解釈することにおいて、時代性を考え、比喩と象徴を合理的ながらも理致的に解いて解釈するので、自由主義的でありながらも神学的側面が強いと見ることができる。鄭総裁が長い修道生活の果てに天から受けた御言葉を整理した『30個論』は、聖書を時代性と歴史性に立脚して解釈することで、神様の御言葉が時代と空間を超越するまことの真理であることを教え諭してくれている。また、究極的には神様とイエス様に対する徹底した信仰と御言葉の実践を強調しており、イエス・キリストの宗教であることを否定できないようにしている。

 このように鄭総裁が30個論と『聖書の生活における実践化』という綱領を掲げ、若い青年たちを中心に宣教活動を展開しながら世界的な成長を成したにもかかわらず、既成の教団たちは長期間このことを認めず、異端だといって攻撃を加えて来た。

 しかし、春が来たら冬服を脱いで春服に着替えなければならないように、天の歴史も時代に従って変遷してきたことを決して否認してはいけない。聖書解釈上の差異のせいで既成教団から異端論争に巻き込まれてきたのは事実だが、明らかなのは今は聖書に隠された比喩と象徴が解かれる時であり、救いを受けられる時であり、恵みを受けられる時であるということだ。訪れる春を人間が止められないように、時代と歴史の流れを誰が止められようか。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければならないように、これからはキリスト教も新しい時代に従って、新しい御言葉で生まれ変わらなければならないのだ。

陶磁器の作品に余念がない鄭総裁。

鄭総裁は去る20018月、第5GACP行事でハワイの会員たちと共にした。

 

400年のキリスト教の歴史の転換点になる新しい御言葉

 鄭総裁は終末と裁き、そして復活に関する理解の面で、他の教派と明らかな立場の違いを見せている。終末は地球が燃えて滅亡するのではなく、循環的な面から旧時代の終わりと新時代の始まりの地点、すなわち『歴史の転換点』と見ており、火の裁きは文字通り実際の火ではなく、神様の『真理の御言葉』を『火』にたとえたもので、終末にすべての霊的・肉的問題が真理の御言葉で解けると解釈している。また空中引き上げも同じで、実際に雲の上に上っていくのではなく、地球がすなわち空中であり、地球という空中で地球村のすべての歴史が起こるということだ。

 一方、キリスト教の信仰の根である復活は、死んだ肉体が生き返るという肉的な復活ではなく、メシヤを信じて従うことで心霊が新しくなる霊的な復活であり、旧時代から新時代に移る時代性の復活であり、行ないの復活を意味すると伝えている。だから、すべてのキリスト教徒たちが待っているイエスは、肉体で亡くなられたから、その肉体では再び降臨出来ないと主張している。

 鄭総裁の教えによれば、列王記下211節で火の車と火の馬に乗って昇天したエリヤを旧約のユダヤ宗教人たちは天から降臨するだろうと待っていたが、結局バプテスマのヨハネとして現れたし(マタイによる福音書1712節)、ダニエル書713-14節では神様が雲に乗って降臨なさると啓示しているが、イエス様は明らかに肉体で降臨したのだと伝える。結局その肉体に神様の霊が臨まれて来られたのではないかといって、この時代もイエスの霊的な降臨があるだろうし、その方と心情が一体となり、御心が一体となり、共に愛が一体となる人を通して現れるようになる、というのがまさに鄭総裁の教えだ。

 鄭総裁が伝えるこのような聖書の御言葉は、実際きわめて現実的で合理的だったので、若い青年たちや一般市民たちを大きく魅了したが、これと同時にキリスト教界に異端論争の種を与えたというのが宣教会側の立場だ。しかし、宣教会は真理でないものは寿命があるとしても、真理は寿命がなく永遠なものだとし、結局勝利するだろうと確信している。

 

放送で異端の烙印を押されても教勢はむしろ急成長

 このような教えのために某放送局の番組を通して『異端』や『エセ』だと烙印が押されたりもしたが、教勢はむしろ拡張し、韓国のみならず全世界の多くの人々が群がってきはじめた。本当に神様の生きている歴史でなければ、不可能なことだった。

 キリスト教は今や部分的で乳児期的な教理の流行遅れの服を脱ぎ捨て、まことのイエスの真面目を発見すべき時がおとずれた。イエス様を正しく知らないくせに、どうやってイエス様がお望みになることを実践し、御心を成すことができようか。イエス様が歩んで行かれた人生の路程を体験しなくてはイエス様の御言葉を根本的に理解できない、というのが鄭総裁のメッセージだ。

 

   天と共に/鄭明析.2006.2

『ここがまさに地上天国!』月明洞修練院がその姿を誇っている。

 

統一教の亜流という批判について

 誰でも神様から遣わされたのでなければ神様の仕事をすることはできないものだ。鄭総裁が吹雪の中で生花を探すように、長い歳月もがきで天の御言葉を受け、命の救いの御心を広げているが、一部では鄭総裁が主張する30個論の内容が原理講論の創造論、堕落論、救い論、再臨論、歴史論などと用語が類似しているからといって、原理講論を剽窃したものだとも言っている。

 しかし、真理は共通性があるから主張するところが同じように見えても、詳しく調べると、ものすごい差異がある。何よりも統一教は神様観において神様の存在を男性と女性の中和的存在者と見ているが、鄭総裁は一段階さらに深く入りこみ、神様は相対異性、聖性として存在しておられると教えている。また、聖霊の根本体について、統一教の立場はイエス様の相対性である女性神であることを主張するが、鄭総裁は聖霊は神様の神的愛の相対体であり、母性神であることを根本的に明らかにしている。以上概観した通り、神様を信じる宗教で神様に対する観が違うのに、統一教の亜流だというのは誤った偏見であり、無理やりな主張に過ぎない。

 統一教はあまりにも肉的で物質に偏り、世俗的で迷信的な要素も持っている。彼らには御言葉はあるが、イエス様がぼやけ、偶像的だと見ることも出来る。また既成のキリスト教は偶像はないが、同時に御言葉もない。しかし、キリスト教福音宣教会は偶像的でもなく、イエス様を徹底的に信じ、火のような御言葉まであるから、統一教とは比較にならない最上の天の歴史を持っていると自負できるのではないだろうか。

 

世界人たちの心霊的故郷『月明洞修練院』

 月明洞は忠南錦山郡珍山面にある鄭総裁の故郷に造られた修練院で、格別に月が明るく大きく輝く所なので、『月明洞』と名付けたそうだ。礼拝を捧げられる場所として造られた月明洞修練院は聖殿としての価値だけではなく、地球上で最高の芸術的価値を持つ所としてもその名声を博している。ここに造られた岩の造景を見てきた数多くの専門家たちは一様に『人間の力では到底造り出せない奇跡』だと話してきた。実際、自然聖殿のあちこちには口で言い表せない芸術的価値を有する岩の造景たちがずらりと並んでおり、広々とした芝生や花や木々によって、眺めるだけでも『ここがまさに地上天国!』という感嘆詞がおのずからこぼれる状況が演出されている。

 月明洞修練院を開発し終わった後の「本当に取るに足らない月明洞も開発しておいたから尊い場所になったように、みなさんも自分の人生を開発して神様に使われる尊い存在になることを願う」という鄭総裁のメッセージは私たちに多くのことを示唆してくれている。

 

周辺の伝説をすべて成就した鄭総裁

 月明洞は、すべての星の中心地となる北極星のように、地形が運動場を中心に五つの谷が星の形を成しており、左青龍(訳注:風水地理で青竜は東方を意味することから、主山を背にして立った時、主山から伸び出た左側の支脈。⇔右白虎)、右白虎の明堂(訳注:風水説で吉とする家宅の敷地)と金鶏抱卵(訳注:金の鶏が卵を抱えている形の土地)の明堂がかち合う吉地(訳注:縁起が良い宅地)中の吉地だ。

 人傑は地霊だと言ったように、その吉地で生まれた鄭総裁は聖書の中に隠された秘密の御言葉を天から受けて世界50余カ国で心霊を救っている立場から周辺のすべての伝説を成就している。

 そのうちテドゥン山の龍門谷は、連続した二つの岩の門を経て入って行き、道を修め、学んだ者が世界的な精神的指導者になって現れるという伝説が秘められた場所だ。このような伝説を聞いて新羅の国師だった元暁大師がテドゥン山を上り下りしながら連続した二つの石の門を探したが、結局見つけられず、太古寺の方の一つの石の門だけを発見し、その中にあるセンエ峰で誠を尽くした後、太古寺を建てたという。しかし、鄭総裁は龍門谷から鷲の峰に上がって行く所に伝説の二つの石の門を偶然見つけ、ここを経て鷲の峰に到着し、修道生活を行なった。世界的な宗教指導者として活動している鄭総裁にとってテドゥン山の鷲の峰は天がくれた名所であり、歴史を成す精神、思想、真理を会得した場所だ。また、インデ山の山脈から大きい人物が現れるという伝説も、故郷の地に群がって来る全世界の人々の波を見て、鄭総裁がまさにその伝説の主人公だという言葉を故郷の人々は伝えている。

伝説の中で伝えられるテドゥン山龍門谷の石の門

テドゥン山の空の下でひざまずいて祈りを捧げている鄭総裁

 

スポーツや芸術・文化活動を通した摂理歴史

キリスト教福音宣教会は祈りや讃美はもちろん、サッカーをはじめとする各種スポーツ、チア、モデル等を含むあらゆる芸術公演から文章や絵を通じた学術活動に至るまで多様な分野を基盤として摂理の歴史を深く広げていっている。このような活動はアジア、北米、ヨーロッパなど全世界を文化や芸術、そしてスポーツ・文化圏としてくくり、互いに和合し、一つになる契機を設けている。スポーツやあらゆる文化行事のたびに数十万人が雲のように集まる結集力は、他のどの団体でも見られない驚くべき様子だ。ただ神様だけが成せる歴史だと見るしかない。

 特に、去る2002811日から17日まで大田ワールドカップ競技場で開かれた『第6回地球村平和文化連合大会』は35カ国から来た会員たちと共に宗教と理念を超越し、人類が一つとなる道を模索したことで全世界人たちから多くの関心を集めた。

 このようにキリスト教福音宣教会は既成教団とは異なり、礼拝堂を抜け出し、より動的で活気に満ちた宣教活動を繰り広げており、多くの人々がもっと神様に親しく近づけるようにしてあげている。「ただ御言葉を聞くことだけが大事なのではなく、御言葉に従って生きていくことが大事だ。従って、いつも家庭に忠実で、隣人と共に生きていくべきだ。」摂理のすべての会員たちはこのような理念を実践するために、家庭で親や兄弟を敬い、愛をもって接する部分を優先的に強調している。また、貧しさや病で世の中からでさえ疎外された隣人に真理の御言葉と物質的不足を満たしてあげることで信仰の見本を示しもする。CGMボランティア団を含む個人や団体が広げている大小の活動は、すでに韓国社会で模範となる『愛の実践者』として生まれ変わっている。

 世の中でこのような模範的な生き方をしている摂理の会員たちを見て、自然に御言葉を聞こうと訪れて来る人たちもいるというから、確かにここは心の中に神様を迎えて生きながら御言葉を生活の中で実践する団体だと言える。

 

去る20028月、大田ワールドカップ競技場で開かれた第6GACP行事。数万人に及ぶ全世界の会員たちが一堂に会した。

20018月ハワイで開かれた第5GACP行事。

 

主と共に伝道する2006

いつでも開かれている救いの御言葉

 『主と共に伝道』という2006年のビジョンを持ち、全世界に神様の御心を伝播しているキリスト教福音宣教会の鄭総裁。彼は今も全世界のすべての集まりにリアルタイムでインターネット映像を通して御言葉を伝えており、民族と世界のために祈る真心を惜しまないでいる。鄭総裁は放送や異端論争の過程でも、むしろ海外宣教に注力するようになり、救いに関する指針書といえる『救い論』を執筆する契機を得た。また二度も参戦したベトナム戦争の砲火の中で、命を愛しなさいという神様の声を聞くようになったとも伝えた。当時、数回の死の危機から助かったのはただ神様の恵みだったと伝える鄭総裁は、ベトナム戦争に関する話が盛り込まれた『愛と平和のベトナム戦』という本を出版する予定にある。

 

 神様の理想世界を地上に広げる歴史が進行中でも、依然として新時代の生き生きとした御言葉を聞けず、むなしい生き方をしている人たちのために、人生の問題を解いてあげ、時代の御言葉を伝えている宣教会の全会員たちにとって、今年一年は非常に重要な時期となりそうだ。

 イエス様が亡くなられてから2000年が過ぎた今も、待っているメシヤが来なかったといって限りなくもどかしい思いをしている既成教団たちに天から受けた救いの御言葉をいつも開いておいているキリスト教福音宣教会は、礼拝や各種文化・芸術活動を通してこの地に神様の歴史を力強く広げている。

 

 

조회수
37,516
좋아요
0
댓글
1
날짜
2006/04/06