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[民政]JMS(キリスト教福音宣教会)鄭明析総裁はなぜ?誰の為に十字架を負うのか?

 

性犯罪問題で韓国社会を騒がせたある宗教団体事件に関し、再評価すべきだという世論が起こっている。問題はマスコミの一方的な投石により、その真実が隠されたという異見だ。

 

 本記者はこの宗教団体に関する放送報道が始まった時から、現場取材を行なっていた。

 99年当時、この宗教団体は放送局の報道により集中的に関心を集めていた。

 当時、S放送局が宗教団体の指導者たちが信徒を拉致したと報道した、別名「ファンヤン拉致事件」のせいだ。しかし、記者が警察の調査を取材した内容は、拉致ではなく単純な暴行事件だった。暴行事件と拉致事件はその刑罰自体が大きく異なる事件だ。このように事実的なことを確認し、「警察ジャーナル」に記事が載るや否や、当時この事件とどのような関連があるか確認できなかった金某氏が電話を掛けてきて、多少激昂した声で抗議をした。

 抗議内容は「なぜ拉致事件を単純暴行事件として記事を書いたのか」だった。記者は当時この事件に関して天安警察署で調査したものを確認したので、事実通り記事にしたことを説明した。そして、会って対話をすることにした。しかし、約束場所まで決めておいて来ることにしていた金氏は現れなかった。電話を掛け、「なぜ来ないのか」と訊くと、金氏はただ行きたくないので帰るという無責任で荒唐無稽なことを言った。そして、一方的に電話を切ってしまった。その後、電話を掛けても取らなかった。

 以後、金氏はインターネット(上)と自らが通う大学に壁新聞まで貼り出し、その事件について単純暴力として記事にした「警察ジャーナル」を非難した。さらには、総学会議まで開こうとした。しかし、警察の調査の明白な根拠があるため、会議は開かれなかった。

 しかし、しばらく後、収まるかに思えたこの問題が再び俎上に載せられた。そして、S放送局は継続してこの問題を拡大させた。JMS教団の総裁が信徒たちに性暴行をし、香港に逃走して、海外でも問題を起こしているという内容だった。この告発番組は教団総裁の行脚を既定事実化し、他のメディアたちはそれを受け売りするかたちで記事を上塗りした。

 事実確認をしないまま、である。その後、この教団の信徒たちは衝撃と絶望のうちに無実の罪人となり、息を潜め、教団内部の葛藤は深化した。信徒のうちでは、到底信じられないといって、放送内容と教会で撮影されたビデオを判読し始めた。その結果、放送において編集によって歪曲したことが見えてき始めた。放送は「鄭明析総裁は性的問題がある指導者」という放送をした。放送局は95年の主日礼拝の「感謝する生活」という説教の原文内容のうち、「命の十分の一を伝道しなさい」という鄭総裁の説教を「十分の一」という音声をどういう言葉か聞き取れないように作り替え、字幕には「女性一人」と字幕を入れて放映した。この部分は視聴者たちが「鄭明析総裁は異性的な問題がある指導者」と認識するしかないようにした内容だった。それだけではなく、当時放映された内容のうち、礼拝場面や行事の時の様子は男女が共にいたのに、女性たちだけ画面に映るように撮影することで、視聴者たちにまるで鄭明析総裁が女性たちだけを相手にする教祖だという印象を与えた。また、団体会員の間で使われていたJesus Morning Star(イエス様の明けの明星)の頭文字であるJMSは鄭明析総裁のローマ字略だという表現で、この団体の公式名称であるかのように放映した。しかし、実際この団体はJMSという名称を一度も公式的に使用したことはなく、取材当時の公式名称も国際クリスチャン連合だと言っていた。

 SBSのこのような偏りのある報道に対し、裁判所は結局、和解勧告決定(写真参照)を下した。主な内容としては「金○○氏などの一方的な提供情報資料を放送で使ってはならない。放送48時間前に告知すること。放送分の5%を保障し、反論報道が出来るようにすること。」というものだった。また、「これを犯した際には、1件当たり3000万ウォンを補償すること。」という決定だった。偏りのある放送の誤りを法的に認めたこの決定は視聴者たちに広く知られることはなく、すでに世論によって犯罪者として烙印を押された鄭総裁は続けてマスコミの俎上に載せられ始めた。

放送は指さしている森を見ない

 

 宗教は自由だ。自由があるから霊魂に安定と平安を与える安息の地として宗教が必要だ。しかし、その信仰の表現と行為は自身の意志による。だから、その行為はややもすると利己的にもなりうる。ゆえに、信仰者は信仰に伴う自身の行為に責任があるということを看過してはいけない。ちょうど社会的に見ると、購入した株式が暴落したからといって証券会社に補償を要求できない論理と同じであろう。宗教を持つことは誰かのためというより自分自身のためだ。このすべてのことが信仰者の自由意志から始まる。だから、万一教理にばかり心酔したら、ひどい場合には親兄弟とも別れる状況を見るようになる。結局、個人の宗教的行為は自身の自律的意志に起因するが、その行為によって社会的波紋と対立が誘発されるという二律背反的な点も記憶しなければならない。

 過去10年間、放送メディアたちは似非宗教に関するいくつかの告発番組を放映した。その後、宗教問題が社会問題として台頭し、世俗化してはいけない、そして神聖であるべき宗教が、法廷で民事・刑事において善悪を判断され始め、宗教問題をペンで手術するという記者たちの取材が先を競って成された。事件取材ではなく一方的な告発取材として、だ。

 主な内容は、信仰者客体が宗教に溺れ、家庭が破たんしたという内容であり、その教理が信仰者客体の自由権を拘束する矛盾や教祖の奇怪な行動に関するものだ。

 残念なのは、取材記者がその宗教を深く理解することなく取材することで、非宗教人の視角しかなく、宗教人の立場は微々たるものだった。そのように部分的に編集された映像は視聴者にこの上ない興味を引き起こした。全体的に見ると、宗教的特性あるいは人間に与えられた表現の自由と相互合意によってはありうることなのに、前後を切ってしまって部分的な映像だけを見ると、本当に奇怪な絵になる。

 例えば、牧師が信徒に洗礼を授けるために、頭に手を載せて祈った後、頭を押さえて水の中にすっかり沈め、再び浮かび上がらせる。この儀式は、この世の罪を洗い、生まれ変わるというキリスト教の洗礼儀式であり、一般常識では理解しがたい絵だ。しかし、一部のキリスト教教理では絶対的なものだ。だが、この絵の前後を切ってしまったら、まるで人に水拷問をしているかのように頭を押さえ、強制的に入水させている映像になりうる。

 また、インドのガンジス川は、生活下水が流れる汚染された水だが、これを崇拝する信仰者たちはこの水が神聖だと信じているため、体と心をきれいにするといって頭までつかり、体を洗ったり、水を口に含んだりもする。険しいヒマラヤ山脈を這うようにお辞儀をしていく信仰者たちは、命をかけるごとく甚だしい苦行を行なう。こういう姿が非宗教人の常識では、なぜそうしなければならないのか疑問であるし、狂った仕業だと言うことができる。しかし、このことは信仰者客体が心の中に受け入れた考えを行動で表す信仰の表現なのだ。

 宗教問題は宗教的な物差しから外れ、一般的な物差しで見ると、神に服従すべきことよりは、大部分「なぜそうしなければならないのか?」という矛盾ばかりある。

 宗教は世の中の物差しでは理解しがたいものだ。神様が土で人を造り、命の息を吹きいれて人に命を与えたということをどうして理解できるだろうか?逆に自分が母親によってこの世に生まれながらも、生まれた瞬間を認識し、覚えている人がいるだろうか?しかし、我々は親から生まれたと信じて生きている。空気は見えないが、すべての匂いも見えず触(さわ)れないが、我々は感じ、予測しながら生きている。

 告発番組は、問題の発端がどこから始まり、社会にどんな影響を及ぼすかに関する指摘と代案を作り出せず、冗漫な画面の最後に「視聴者の判断に任せる」といって締めくくる。かような告発番組が事実からかけ離れた映像ばかりを放映したことで、これまで心に平安を抱いて生活していた宗教人たちは突然被害者かつ加害者になってしまった。その宗教を信じる人は奇怪な教祖と同じような人として扱われ加害者となり、教祖を詳しく知らずに従うようになった被害者となる。

 

200644日中国で起きた事件

 放送に矛盾があるということを知ったキリスト教福音宣教会(以下、教団)の信徒たちは、このような放送内容に到底納得できないとし、事実確認のために東奔西走した。一方、この教団の問題を世の中に暴露すると立ち上がったアンチJMSの代表的団体であるエクソダスの主導者は記者に「ファンヤン拉致事件がなぜ単純暴行事件なのか」と抗議した金氏だった。

 2006418日、エクソダス側の金氏は被害を主張する4名の女性たちを表に立たせ、記者会見を開いた。世の中がJMSについて忘れかけた頃、再び記憶をよみがえらせる状況となった。記者たちは正義の側で努力するという金氏の立場を聞こうとした。しかし、この場で衝撃的な内容があらわになった。当時、事件の重要性を知るために調査してきた朴某牧師は「金氏にやられたことのない人は分からない」と言い、金氏が合意を名目に20億ウォンを要求していることを明らかにした。この内容を知ったK放送の記者は記者会見に問題があることを見定め、取材を中止した。その後、この事実を知った記者たちもアンチJMS主導者金氏の行動の信頼性を疑い始めた。

 200644日、事件の被害者だと主張する張某さんと金某さんが中国公安の保護下で病院の診察を受け、調査の結果、特別な異常と性暴行の痕跡は見当たらず、特に張某さんの場合は生理中であり、調査結果を一つのハプニングとして締めくくった事件だと言った。

 しかし、間違いなくこの事件によって鄭総裁が韓国に身柄引渡をされたかのように見えるが、韓国で告訴された事件に鄭総裁は出頭せず、起訴中止になった状態で、また別の海外事件を発端に法務部が身柄引渡を要請し、中国が受け入れたのだ。

 この事件に関し、韓国警察病院でも48日、被害者たちの被害状況を確認するため診断を行なったが、性暴行の痕跡は見当たらず、処女膜も傷ついていなかったという所見を示した。

  金氏は教団関係者との対話において被害名目で20億(ウォン)を要求しているが、当時、事件がまだ法で判決が下されていない状態で要求したものだった。

 

者たちが金氏にもてあそばれた可能性がある

 

 金氏は引き続きこの事件を社会的に浮き彫りにするために記者会見を開いた。当時、金氏の主張によれば、女性たちは「ひどい性暴行を受け、歩行困難なほどの深い傷を負い、下血した。」と発表した。

 しかし、この事件が法廷に持ち込まれた後、この陳述とは異なり、被告の弁護人は事件現場にあった当時の監視カメラを見ると、この二人の被害者は金氏の主張とは異なり、笑みを浮かべており、歩行にも全く不自由は見られないと反駁した。

 それ以外にも事件前後の事情を考慮した時、理解できない部分が何点かあった。

 つまり、張某さんと金某さんは47日韓国に帰国してすぐに告訴をした。ところが、疑問なのは告訴状の金某さんの名前はワードで作成され、署名・捺印がなかった。また、告訴状には被害者と直接関連がないエクソダス(アンチJMS)で製作した資料が添付されていた。このことは、エクソダスと金某さんが中国に行く前からつながっていたと疑われる部分だ。

 また、法廷で熾烈に攻防が繰り広げられた被害者の性暴行の部分は、一般人の常識でも到底理解しがたい部分が多かった。いくつか例を挙げると、先述したように被害者に対する性暴行の真偽は中国の病院でも被害がなかったと証明されたし、韓国警察病院でも明らかに初診結果は「処女膜に全く損傷がなく、いかなる形態によっても性暴行を受けた痕跡は見当たらない。」というものだった。

 しかし二日後、告訴人金某さんは再び警察病院に診察を要請し、その結果、当初とは異なり、0.5cmの裂傷があると診断された。この部分につき、当時の診療担当医師は法廷で、女性が自転車を激しくこいだ場合生じうる軽微な傷だと陳述した。前後の事情をかんがみると、自ら傷をつけたと疑うしかない件だと被告の弁護人は主張した。

 また、金某さんは性暴行当時、膣内に水を無理やり挿入されて腹部が膨張したと自身の腹部写真を証拠として提示したが、金某さんを診察した韓国警察病院の医師は法廷で、この部分は医学的に不可能なことだと証言し、被告の弁護人はこれも被害を捏造するためのものだと主張した。

 何よりも注目すべき事実は、性暴行被害に遭ったと言い、法廷告訴を共に進行してきた張某さんが偽証をしたという宣言をし、告訴を取り下げたことだ。張某さんは母親の手を握って法廷に現れ、警察と検察の陳述を翻し、被害事実を完全に否認した。裁判部は「証人が告訴内容と異なる陳述をすれば、処罰されることもある」と言ったが、張某さんは「処罰されてもいい。実は性暴行を受けていない。自分と共に告訴した金某さんも強姦など性暴行を受けた事実は全くないにもかかわらず、エクソダス側の偽造によって虚偽の告訴をし、今まで虚偽の陳述をした。」とはっきりと打ち明けた。すると、告訴人たちを管理するように行動していたエクソダスの金某氏は張某さんを偽証嫌疑で告発した。金某氏はどんな権利によって良心に従って行動した張某さんを告発したのかも確認しなければならない事柄だ。

 

金氏の二重的な行動

 また記者は裁判途中、この事件についてキリスト教福音宣教会側の証人たちのいくつかの証言を聞くことができた。彼らの証言は大部分至極常識的であり、事実に基づくものだった。その中でも特に99年以降、一連の事件の真実を知るためにあらゆる手段で努力してきた朴某牧師の法廷証言は、エクソダス側の金氏の実体と被害者たちがなぜかくも理解できない主張をするのかについての理解を助ける明快な陳述だった。

 法廷の証言席で朴某牧師は、この事件を解決するためにエクソダス側の金氏に会った内容を陳述した。その謄写内容の一部を引用すると、エクソダスの金氏は朴牧師に会った場で「おまえたちがいくら努力しても、鄭明析は絶対に韓国に帰れないだろう。検事の中にJMSだというと歯ぎしりをする人たちがいる。部長検事級だけでも3人もいる。自分に合意金20億をくれれば被害者たちと共に告訴したことを取り下げよう。」と言い、これに対し朴牧師は「2006年中国に行った時、総裁がお前を愛しなさいとおっしゃっていた。でも、愛する心があまりわかない。総裁は必ず韓国にお帰りになる。その時は真実がすべて明らかになるだろう。だからその時に後悔しないように告訴を取り下げなさい。」すると金氏は「真実が好きなんだな。お前たちがいくら馬鹿なまねをしても絶対に帰って来られないだろう。たぶん一生中国の監獄で埋もれることになるだろう。お前もおそらく一生総裁に会えないで死ぬだろう。万が一お前たちの総裁が帰って来たとしよう。勝算があると思うか?この携帯電話に登録されている数え切れないほど多くの記者たちと検察関連の人たちから今も俺、金ド○○に情報をくれと連絡が来る。お前はマスコミの力を知らない。特にSBSが黙ってると思うか。お前たちにSBSを押さえる力があるのか。SBSが黙っていないだろう。今までどれほどたくさん放送をしたか。お前たちが勝訴できるだろうか?人脈を通じた力をお前は分かっていない。」と言った。

 これに対して朴牧師は「お前が文某氏に直接告訴取り下げ状を見せてやったらしいな。車の中にいつも持って歩いてるんだって?」と質問するや、金氏は「そうだ。合意金20億なしには絶対だめだ。それに、お前たちの牧師が、俺抜きで女たちに電話をして会おうとした。俺の知らないところで会って合意をしようとしたけど、俺に見つかったから邪魔しておいた。気が狂ったやつめ。絶対俺抜きで女たちに会ってはいけない。それに、この女たちは狂ったあまどもだ。俺、金ド○○抜きで合意を受け入れたんだ!俺に隠れては絶対誰も合意できない。」と言った内容だ。

 

鄭総裁の身柄引渡の決定後、変化した金氏の態度

 

 鄭総裁の身柄引渡が決定してしばらく後、金氏の態度が急変したと朴牧師は証言した。これまで提示してきた合意金20億ウォンを14千万ウォンに引き下げたのだ。14千万も金氏が裁判の過程で発生した罰金を払うための金額だと言った。金氏が提案した合意条件は

一つ、14千万ウォンと共に金氏の父親が信徒たちから受けた被害を補償してほしい。

二つ、鄭総裁の身柄引渡時、宣教会の代表者と法的担当者たちが今後いかなることがあっても、自分を告訴・告発しないという覚書を書いてほしい。

以上の条件を守れば、今まで自分が告訴・告発したことをすべて取り下げるし、他の告訴人たちも自分にかかっていると言い、鄭総裁と宣教会の会員たちに謝罪を表明し、自分はこれからJMSとは何の関係もなく自分の道を行くということを記者会見を通して説明する、ということを朴牧師に話したそうだ。

エクソダスの主導者金氏は19991115日に「鄭明析総裁を陰湿に攻撃し、スキャンダルを載せ、不名誉を被らせ、深い傷を与えた点を深く反省する。」という内容の反省文を作成し、認証までし、宣教会に提出した事実があり、2005317日、721日には鄭明析総裁に二度謝罪の手紙を送った。

手紙の一部の内容を見ると「今まで誤解をし、名誉を棄損し、侮辱を与えた点を謝罪する。」という内容と「過去6年間、総裁に対して私とエクソダスの会員たちが誤解をし、名誉を毀損し、侮辱した点を今一度謝罪します。」という内容だった。

金氏自身の自筆の手紙には印鑑が捺印されており、印鑑証明書と自身の写真を添付し、鄭総裁に送った内容だった。

これに対し鄭総裁は200583日金氏に返事を送った。「二度手紙をもらい、本当にうれしく心が感動し、手紙を書くようになった。

愛する恋人も喧嘩すると敵になるのに、イエス様の御言葉通り、争えばだれでも敵になり、心苦しいものだし、互いに心が辛く、害にばかりなるものだ。

…中略…

6年間、私の心配と様々な苦痛になり、その被った害は全世界にまで及んだ…またあなたが考えてみれば私は悪者ではないとまで言っておいて、お金を要求するなら、私の考えはまた深まるばかりだ…」

 

金氏はこのようなプロセスを作り、合意金を要求したが、教団から金を渡さなかったので、金氏が要求した協商は失敗となった。金氏が99年「警察ジャーナル」で拉致事件をなぜ単純暴行事件として記事にしたのかと問い質したその理由は、最初から教団を相手に巨額を受け取ろうと計画したことに狂いが生じることが憂慮されるや「警察ジャーナル」を圧迫するために抗議したものと考えられる。また、S放送局とその他メディアに対する金氏の主導的な情報提供によって取材が成されたとみられる。彼は放送と各種メディアを動員して世論を形成し、教団を当惑させ、教団内にはこれを防御できる体制がないことを知り、世論を作り上げたと見られる。

核心は親告罪という点を利用し、被害者だと主張する者たちを管理しながら彼らに告訴させ、その告訴を脅迫に利用して教団と取引をし、告訴人たちに隠れて巨額の金20億を要求した後、合意を取り付け、要求が受け入れられれば反意思不罰罪を利用、合意に合わせて訴えを取り下げようとした計画と見られる。

 

世の中の理論は宗教の理論を越えられない

 

人間が作った法律以外に宗教人たちには自然法が存在する。慣習法のようなものだ。大多数は世の中の法律をすべて習得して生活するのではない。自然法の一つである良心を基準に法を守り、それなりに熱心に生きて行く。

 特に宗教人客体はなおさらそうだ。神に頼ったまま信仰の物差しで生きて行くと言っても過言ではないだろう。そういう彼らに対して、宗教の自由を保障する世の中の法律の物差しで宗教問題を罪あるものと判定することには無理がある。

 これまで社会的に問題となってきたこの事件も、その中心にはむしろ被害者が別におり、巨額を要求して取引する人が別にいた。

 教団の信徒たちとこの事件の真実を探るために東奔西走し走って来た朴牧師は、エクソダスの金氏が自らの利益を達成するためにマスコミへの情報提供と世論操作により司法部の判断を揺るがしたものだと主張する。

 法廷では鄭総裁が「違う」という主張をはっきりとしたにもかかわらず、その主張がほとんど受け入れられず、判事も世論に押され、裁判過程で被告の立場を十分に調べなかったと見られると言った。

 鄭総裁は「私は罪を犯していないので、告訴の件を軽く見た。」と言った。また、鄭総裁はいつも神様の御心があるという考えで海外宣教に心をとらわれ集中していたと言った。その間、2000年、2001年にすでに帰国し、調査を受け、「嫌疑なし」に終決していた。

 その後起こった告訴の件には、海外宣教のための日程のせいで、すべて対応出来ない状況にあったと見ることができる。鄭総裁は「韓国に帰ってみて、深刻さを知った。」という陳述をした。

 取材をしている記者も非宗教の物差しで宗教行為を見ると、奇怪な絵を作り出す。

 検察もこの事件に関し、一方的な公訴維持だけのためより「百人の泥棒を逃しても一人の無念な罪人を作ってはいけない。」という無罪推定原則にどれほど忠実であったか振り返ってみるべきだろう。

 アンチJMSの金氏のかような行動が暴かれた以上、それによって鄭総裁に対する無辜の嫌疑がないのかも検討してみるべきだろう。それと共に裁判部は、証拠と証人が曖昧なこの事件に10年という重刑を宣告した結果には、審理を任された裁判官たちも宗教に対する理解不足と無理やり作り上げられた世論によって判断が鈍ったことがあったのではないかを振り返ることで、鄭総裁の無念な部分を調べるべきだろう。また法廷証言ですでに相当部分が明らかになったように、エクソダスの金氏が合意金を要求した状況があったので、金を目的に告訴人たちを管理するように行動し、告訴人たちを調整した背後で意図的に問題を作ったのではないかも冷徹に指摘し、調査すべきことだ。

 鄭総裁はイエス・キリストの教え通りに敵を愛さなければならないという犠牲の心で十字架を一人で負おうとするが、今からでもすべてのことを正しく明らかにすべきだ。そうでなければ、教団に世の中の法律家がいないという点を悪用し、自己利益を追求しようとする輩を助ける行為である。99匹の羊より1匹の羊を探そうとする愛の心が、ややもすれば99匹の羊を失う結果を招きうるからだ。

 このような努力と決定は、鄭明析総裁をはじめとして、数年間罪なく苦難を経ている数万人の聖徒たちの無念さを解消し、名誉を回復させる鍵になるだろう。

 

 韓国キリスト教福音宣教会の集会場面

 

 

 

 

 

 

 

 

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날짜
2012/02/15