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[時事ニュースジャーナル] キリスト教福音宣教会 鄭明析総裁

 

開かれた信仰観と人生観で世界に愛と平和を植える

 宗教界、特にキリスト教では、人々が生きていく一般的な様子を「世の中」と表現し、信じない人々を称して「世の中の人」と言う。いわゆる、よく言うところの世俗という意味で、宗教が世俗的な価値を追い求めないという誓いの一断面と解釈される。その分、宗教は私たちに世の中の価値よりはもう少し真実な意味の人生の価値を提示しなければならない課題を抱えているのだ。にもかかわらず、大多数の宗教人たちの姿は現実からかけ離れているような感じを否めず、時には過度の社会化によって非難されている実情だ。このような趨勢の中で、鄭明析総裁が率いるキリスト教福音宣教会の活動は、図式化された宣教方式から抜け出し、文化活動やボランティアなど多様なコンテンツによって大衆と呼吸を合わせることを重視しており、人目を引いている。

 

6回地球村平和文化連合大会(2002.テジョンワールドカップ競技場)

 

 

 

キリスト教に新しいビジョンの提示

キリスト教福音宣教会はどういう団体であり、設立目的は何なのか?

「信じて死んでから天国に行こうという単純な救いの論理から抜け出し、生きているとき地上でも天国を成すべきだ。」という意味で、この地に理想世界を具現しようというのがキリスト教福音宣教会の目標です。

これは神秘主義に捕らわれている宗教観から脱皮しようとする努力の一環として、実際の生活の中で、聖書に記録された神様の教えを生かし、息づかせようというものです。

鄭総裁は、特に若い青年たちが教会を遠ざける理由は、聖書に記録されている文字に縛られたキリスト教の排他的な宣教方式に問題があるからであり、これは神様とイエス様の御言葉を教えることよりは体制維持に力を注ぐキリスト教の限界だと指摘しています。

このような限界状況を乗り越えることで、神様とイエス・キリストの教えが生きて息づく教会を作るところに目的を置いています。

国内にはすでに400個以上の教会が設立されており、海外でも50余カ国に計20余万名を数える会員たちによって躍動的な団体に成長しています。

 

 

人間がまさに真理の塊

鄭総裁が悟った30個論とは何ですか。

 

 

 鄭総裁が聖書を2000回余りも通読しながら、30年間以上の究極的な修道生活の中で天から受けた御言葉を文書に整理し、120ページに図表化させたものが、すなわち30個論です。鄭総裁は真理を悟ってから、人間がまさに創造主の実存体であり、真理の塊なのに、堕落によって価値性を喪失し、愚かに生きていると言いました。30個論を聞けば、聖書の問題だけでなく、人生のすべての問題が、雪が融けるように解けるようになります。火、終末、空中引き上げ、裁き、創造目的と堕落、再臨の秘密などがすっきりと解けます。

 

 

聖書は比喩と象徴で記録された本

ならば、30個論の核心は何だと言えますか?

 旧約のユダヤ教は4000年間、神様を信じながらメシヤの降臨を待っていました。彼らは、終末になったら彼らが信じる神様が雲に乗って降臨し、信じない人たちを裁き、選民である自分たちは死んだ肉体も復活させて理想世界を成すと思っていました。そのような信仰のせいで、大工の息子として肉体を持って現れたイエス様を否認し、十字架にかけて殺してしまったのです。

 同様に今日のキリスト教も、イエス様を信じながらイエス様が終末に再び降臨なさることを待っています。しかし、ユダヤ教のように聖書の預言を文字通り解釈し、雲に乗っていらっしゃり、火の裁きをし、肉体を復活させ、空中引き上げをさせるイエス様を待っています。

 過去、旧約の時のメシヤの降臨に関する預言が、新約の時どのように成されたかを通して、新約の預言がどのように成されるのかを知ることができます。しかし、多くのキリスト教徒たちは、旧約の預言が初臨主の時に成されなかったから、再臨主の時に成されるのだと主張しています。マタイによる福音書1113節に、すべての預言者と律法とが預言したことは、バプテスマのヨハネの時まですべて成されたとあります。だとすれば、旧約のメシヤ降臨に関する預言がイエス様の当時に成されたということです。

 聖書は比喩と象徴で記録された本です。雲の比喩は、汚い水が太陽熱を受けて蒸発し、きれいな雲になるように、堕落した世の中で神様を信じて律法を守り、燔祭を捧げ、メシヤを待っていたユダヤ宗教人たちがまさに雲だったし、またイエス様を信じて新約の御言葉を守りながらメシヤを待っていたキリスト教徒自体がまさに雲です。2000年前、イエス様がユダヤ宗教という雲に乗って降臨したけれど、悟れず、空の雲ばかり眺めていたので、メシヤを迎えられなかったのです。

 火の裁きは、文字通り実際の火ではなく、神様の真理の御言葉を火にたとえたもの(ルカによる福音書1249節、ペテロの第二の手紙37節など)で、終末に霊的な問題と肉的なすべての問題が真理の御言葉で解けることが、すなわち火の裁きです。

 終末は、地球が燃えて滅亡するのではなく、循環的な側面から旧時代の終わりと新時代の始まりの地点、つまり歴史の転換点が、すなわち終末だと見ています。復活も(イザヤ書2619節、エゼキエル書3712節以下、ダニエル書122節、テサロニケ人への第一の手紙416節以下)すでに死んだ肉体が生き返る肉体の復活を言うのではなく、時代性の復活、主管圏の復活、行ないの復活を言います。ヨハネによる福音書524節以下を通して、メシヤを信じて従うことで心霊が新しくなる霊的な復活として見ています。空中引き上げも、雲の上に上がって行くのではなく、地球がすなわち空中であり、地球という空中ですべての歴史が起こるということです。過去を通して私たちは現在を知ることができ、未来を知ることができるのではないでしょうか。歴史は同時性で回って行きます。

 

 

月明洞自然聖殿 主日礼拝(1998年)

 

救いに関する指針書『救いの御言葉』

鄭総裁が執筆なさった『救いの御言葉』について説明して下さい。

 

 地球村の数万種類の本のうち、救いに関して正しく書いた本がないといって、海外で6年間執筆した本です。しかし、この時代の完全な真理を悟って救いを受けるまでは20年以上のもがきがありました。最初、鄭総裁は地獄論を執筆しようとしました。『地獄が恐ろしいからそこに行かないようにしよう。』ということを結論として地獄について詳しく書き、最後に『地獄に行かないために神様を信じなさい。メシヤを信じなさい。』というふうに書こうとしました。ところが『誰が地獄が恐ろしいことを知らないで地獄に行くのか?恐ろしいと分かっていながらも行くのだ。』という声を聞いて、天国について書こうとしましたが、また声が聞こえました。『誰が天国が良いことを知らないで行けないのか。天国が良いことはみな知っている。天国が良いことを知らないで行けないのではない。天国に行く方法を知らなくて行けないのだ。』それで何を書こうかあれこれ考えた末、『救いを受ければ天国も行くようになるし、地獄も行かなくなる。』と悟るようになって、執筆した本がまさに救い論です。

この本は救いの理論を論じて書くというより、この時代、今成されている神様の救いの歴史を書いたものなので、非常に実感が湧くように記述されています。イエス様が根本を教えて下さらなければ書けない救いの御言葉だから、いつの時よりもお祈りをたくさんして心と思いと命を尽くして書いた本だとおっしゃいました。神様が人類を救おうとするしかるべき方向をこの時代に合わせて提示している救いの指針書だと言えます。

 

 ▲アジア地域平和カップサッカー大会 (台湾, 2001年)

 

▲ 自然と美術の祝祭 (月明洞. 2003. 10)

 

文化交流を通して世界平和に貢献

 地球村平和文化連合の多角的な分野と文化交流活動について話して下さい。

 神様は宗教だけの神様ではなく、文化や芸術の神様だとも言えます。神様を愛する人にプレゼントとして下さったのが文化と芸術だとし、神様に対する感謝の表現として文化芸術活動にも心血を注いでいます。鄭総裁は地球村文化芸術平和協会の総裁として地村美術祭、陶画個人展、アジア青年国際交流展など国内外多数の展示会を通して多方面の芸術活動を繰り広げており、毎年平和のための芸術、スポーツなどの活発な文化交流活動を支援しています。

 国際的な民間交流連合団体である地球村平和文化連合はスポーツや芸術など多様な文化交流を通して互いを理解し、対話できる和合の場を提供し、国家と民族の限界を超える愛と平和の地球村を実現するために組織されました。19998月に開かれた第1回国際平和サッカー大会から始まり、2002年、テジョンワールドカップ競技場で811日から17日まで開かれた第6回地球村平和文化連合大会は、35カ国から来た会員と共に、宗教と理念を超越し、人類が一つとなる道を模索し、全世界人の関心を集めたりもしました。

 

 ▲地球村平和文化連合会 (ハワイ. 2001年)

 

砲火の中で人生の価値を悟る

鄭総裁がこのような世界的な団体を作って宣教に乗り出すようになった動機があるはですが。

 

 

 鄭総裁は青年のとき軍に入隊して、二度ベトナム戦争に参戦したことがあります。彼はこの時期に死の恐怖と人生の虚無について心底深い省察を経験したそうです。また数回にわたる死の危機から助かったのはまさに神様が見守って下さったからだと告白し、それ以降、ただ神様に仕えて生きなければならないという覚悟を固めたのです。生と死が交差する現場で本当の人生の価値を見つけたのです。

 その後、神様の教えを伝えようと決意した鄭総裁は、7080年代、混沌に陥っていた韓国の社会相で若者たちが価値観の喪失によってさまよっている姿を見ながら、彼らを救うことが優先だという方向性を見つけたそうです。

 彼はベトナム戦争の砲火の中で、命を愛しなさいという神様の声を聞くようになり、韓国社会が生きるためには若い命たちを救わなければならないと宣教方向の焦点を合わせて来たのです。

 今は海外宣教中である鄭総裁は、ベトナム戦争で体験した神様の御働きも本に執筆し、これを通して神様のメッセージを伝えるという意志を明らかにしています。

 

 ▲第6回地球村平和連合大会 (2002. テジョンワールドカップ競技場)

 

自然の中で神様の手を感じられる所、月明洞

月明洞修練院はどんな所ですか?

 

 月明洞修練院は、忠清南道錦山郡珍山面にある鄭総裁の故郷に造成されたキリスト教福音宣教会のへその緒のような所です。月明洞という名前は月が明るく大きく輝く村という意味で、会員たちの意志を集め、鄭総裁の故郷の村を10年余りの間、会員たちの汗と努力を注いで開発して造っておいた所です。

 ここを開発するようになったのは、鄭総裁が祈りの生活をしながら天の声を聞き、御言葉を悟った場所として特別な意味を持っている所であるだけではなく、自然を通して神様の手を感じ易い所だからでもあります。地理的には蘆嶺山脈と車嶺山脈が交差し、大仰にげっぷをする場所として、昔から世界的な人物が現れるという伝説が伝わっていることを考えると、世界宣教に邁進している鄭総裁がここで生まれたのは偶然ではないと考えられます。

 過去1990年代初頭までだけを見ても、人々がほとんど訪れない人里離れた田舎の村でしたが、今は我々会員たちだけでも人の山に人の海をなして、一年に数十万人の人々が訪問する所に変わっています。

 夏にはあらゆる公演が可能な舞台は言うまでもなく、あらゆる運動を通して体力鍛錬が可能だし、冬にはスキーやそりなど多様なレジャー活動も可能で、会員たちにとっては天恵の休息所として脚光を浴びています。

 月明洞を開発した後で「本当に取るに足らない月明洞がこのように開発しておいたら尊い場所になったように、みなさんも人生を開発して神様に使われる尊い存在になることを願う。」とおっしゃった鄭総裁の言及は私たちに多くのことを示唆しています。

 

 

 ▲月明洞の池の八角亭

奉仕の実践を通してキリストの精神を実現

キリスト教福音宣教会傘下にCGMというボランティア団を運営していると聞いていますが。

 CGMボランティア団は、病の人と貧しい人を世話し、御言葉を与えて癒されたイエス様の教えを実践してこられた鄭総裁の意向によって設立されました。愛はこの世のどんなものよりも強いものだという精神でキリストの愛を実践するためのプログラムを推進しています。

 主に青少年たちを正しく育成することに焦点を合わせていますが、青少年たちを正しく指導することは、韓国社会の未来を保障する重要な鍵です。

 

 ▲月明洞自然聖殿

 

 

 特に彼らが健全な精神世界に武装することで、未来に健全で着実な家庭を成せる土台をつくることは、我々キリスト教福音宣教会が主張する家庭平和理念の一つの軸でもあります。隣人に必要なものを提供するボランティア活動は、社会の構成員として責任を持たせるのは無論、所属感を持たせる重要な動機になります。

 その上、信仰が基盤のボランティアは、代価を望まないで施すイエス様の思想をそのまま伝え受けられるようにするのはもちろん、真心を込める奉仕の手はどんなものより尊い価値を持っていると言えます。

 我々キリスト教福音宣教会では、全国の傘下教会が1教会1奉仕のプログラムを遂行しており、これは究極的には人類の平和を志向する摂理理念を実現しようという意志の表現でもあります。

 

 

 具体的には、すでに言及した家庭平和運動は言うまでもなく、社会健全文化キャンペーン、地域内脆弱地環境浄化活動、青少年善導及び文化活動、児童福祉活動、施設労力奉仕、献血、災害救護活動、医療奉仕、農村奉仕、障害者援助、献金募金、老人など脆弱階層に対する救護活動、国際奉仕、マラソン開催、合唱団巡回公演など50種類以上のプログラムで毎月1000人以上が全国はもちろん世界的に活動しています。

 

 

 

神様の働きは歴史を通して明らかに

既成教団から非常に注目されると同時に異端だという批判も受けていますが、異端についての基準はありますか?

聖書を詳しく読んでみると、時代ごとに神様が遣わされた人たちが歓迎されず、異端視されてきた痛ましい歴史を記憶することができます。この地にメシヤとして来られたイエス様は言うまでもなく、その弟子たちは異端として追いやられ、殉教者の道を行かねばなりませんでした。

当時の既成教団だったユダヤ教の視点で見た時、イエス様を始めとしてその弟子たちが異端に見えたでしょうが、今日イエス様の教えに従っている私たちとしてはむしろユダヤ教の指導者たちの無知を責めずにはいられません。

結局、異端という概念は極めて相対的かつ可変的であり、歴史の判断に任せなければならないものだと思います。昨日の異端が今日の正統として認められる歴史的事実を見たら、正統は正しく、異端は間違っているという善悪論理は当然止揚されるべきだと思います。聖書を詳しく見ると、ヨハネの第一の手紙222節に「父と御子とを否定する者は、反キリストである」と書いてあります。

鄭総裁と我々会員は誰よりもイエス様をキリストとして仕え、信じています。天の御心に正しく仕え、その御心を行なう人たちがすなわち真の神様の人たちでしょう。鄭総裁は神様に仕え、その御心を実際に行なうことに最善を尽くす神様の人です。私たちもその教えに忠実に従っています。

 

 

民族の守護者はただ神様

宗教人の視点から、最近問題となっている北朝鮮の核保有と東北アジアの平和について一言お願いします。

 北朝鮮の核問題は韓国民族だけではなく東北アジアと世界の平和に莫大な脅威となっているのが事実です。最近になって米国との協商が進展したり、北側の条件付第6回会談の復帰可能性が言及されるなど、一層進展している様子を見ながら、胸をなでおろしていますが、一日も早くこの問題が解決されない限り、朝鮮半島の平和を保障するというのは実際難しいと思います。

 200年以上前、朝鮮半島に神様の御言葉の種が撒かれて以降、大韓民国は全世界の精神文明を主導するキリスト教国家として定着しつつあります。このような背景を見た時、今回の北朝鮮の核沙汰は神様も決してお許しにならないでしょう。

 去る1994年にも北朝鮮の核兵器開発をめぐって深刻な軍事的緊張状態に置かれていた時、私たちは全国の教役者と会員たちが集まり、二度にわたって徹夜で祈ったことがあり、神様が祈りを聞いて下さって、深刻だった緊張状況が解消したことがあります。

 昨今の現実も私たちが立ちあがってこの民族と世界の平和のために祈り、神様に韓国民族の保護者になって下さることを願い求めるべき時だと思いますし、すべての宗教人たちが心を一つにすべき時だと思います。

 

 

 このような思いから、私たちは去る617日、月明洞に集まり、全国の教役者たちがこの民族の未来のために救国宣言文を朗読し、救国祈祷会を開催しました。

 

 

 

国内1000個の教会、海外120カ国に福音伝播の目標

キリスト教福音宣教会の今後のビジョンと計画を教えて下さい。

 

 これまで鄭総裁は建物を建てることより命を育てるところに力を注いできました。私たちは毎期数千人ずつ御言葉の修了式を行なっていますが、これがすなわち私たちが持っているビジョンであり、究極的な宣教目的でもあります。これに加え、現在進行中の指導者養成課程を通して、4500余名の指導者たちが霊的、人格、リーダーシップ教育を受けていますが、彼らが未来に宣教はもちろん社会活動を通じて神様の御心を広げる人材として使われることでしょう。単純に国内宣教だけではなく、もっと大きい世界宣教のための歩みにおける主役として成長することでしょう。

 アジア各国はもちろんアメリカ洲やヨーロッパ大陸で成されている海外宣教が次第に活発になっているのは鼓舞的な(励みとなる)現象であり、海外宣教に全力を傾け、国内1000個、海外120個の支部の設立を可視的な目標として推進しています。また、文化芸術を通して国際文化交流の場を拡大し、人種と宗教の壁を壊すことで神様の思想を伝えることに邁進するつもりです。

これと同時に、各国に派遣されている宣教師たちは、文化使節団の役割を担い、世界各国に韓国の真の姿を伝えることで民間外交官の役割までも遂行していくでしょう。

 

 

オリンピック重量挙げ競技場 伝道集会

 

自分を作品化しなさい

最後に、この記事を読む読者に言いたいことがあれば一言お願いします。

 

 人間は神様的な価値を持つ偉大な存在です。神様は人間を通して神様の御心を成そうとするので、私たちの存在価値はそのぶん無限だということです。世の中を生きていくためにはお金、名誉、権勢が重要な要素ではありますが、究極的に真理を失ってしまった人生は虚しいだけだということを私たちはあまりにもよく知っています。

 青春時代に酒、煙草、異性に溺れてあっぷあっぷしているうちに、いつの間にか自我を喪失した自身の姿を見るようになるでしょう。私たちが作品を構想する時、より美しい形を思い描くように、創造主も私たちが美しい姿で生きていくことを願われるのは当然なことです。この上なく虚しい世の中の価値を追いかけずに、天の権勢にあずかって尊い人生の価値を取り戻すことを願います。

 結婚式場で新婦は最大限美しい姿に飾り、新郎の手を取るようになります。

 イエス様は、まさに私たちが天の新婦にならなければならないし、新婦になるために美しい姿で目を覚ましていなさいとおっしゃいました。鄭総裁も自分を作品化して家庭、民族、世界のために使われる存在になるようにと指導しています。自ら誤った行ないによって自分を駄目にしないで、完全になれるよう努力していきましょう。それが今日私たちに与えられた使命であり、神様が私たちに投げかけるメッセージです。

 

 

 

 

 

 

 

「私」

ひとかけらの瓦に

千年の夢を載せ

私は日々希望で櫓を漕ぐ

私は

「言葉より実践だ」

体は小さいがすべて理解でき

目は小さいがあの世この世を

すべてを見抜く

手と足は鉄の杖のようで

我が人生で使ってなお余る

この身をもって

私のため

家族のため

民族のため

世界のため

天宙のため

未練なく使っていこう

1988101日サンド洞にて鄭総裁の信条を告白する詩

 

 

 

 

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날짜
2005/08/01