人はみんなそれぞれ自分だけの人生を生きている。鄭明析牧師が歩んできた道もそうだった。ある面では栄光だが、ある面では苦労ばかりであった。見る人々に人生の教訓として役立てばと願い、この文章を天の感動によって書く。
世の中の存在物は神様が創造しておかれたが、人々がどのように手を加えるかによって、どんなものになるかが左右される。人々が踏み歩く土も手でこねて、きれいに形作った後1200℃で焼き上げた焼き物になると、誰も踏むことはできず、かえって応接間の尊い場所に飾られる物となる。人も同じだ。人も神様の創造物であるが、再び神様が手を加えられることによって、その人生が左右されるのである。鄭明析牧師の「私だけが歩んできた寂しい道」の話は、神様が彼の人生に手を加えてこられた過去の話だ。この文章を通して、自分の人生に神様がどのように手を加えられるのか、みんなも悟ってほしい。
鄭明析牧師の祖父
ある時、鄭明析牧師の祖父が息子に息を潜めながら、「お前に話しておきたいことがある。私たちはもともと今いるこの月明洞に住んでいたのではなく、私は公州、パンポミョン、ソクポン、ケリョン山、トンハク寺の近くにある村に住んでいた。大院君(テウォングン:1820~98年。李王朝末期の政治家)の時勢にはその下で働き、景福宮に出入りしながら漢陽(李氏朝鮮時代のソウル)に住んでいた」と話した。
今も公州に出かけると、年配の方々が鄭明析牧師の祖父についての話をおぼろげに聞かせてくれる。祖父は忠清道地域の税金を徴収し、12頭の馬に積んで、景福宮を再建する時に手伝った。祖父が大院君の下で高宗王(1852~1919年。李王朝第26代王)に仕えていた頃、日本人が政権を握っていた時代だったので、まかり間違えば命が危うい状況だった。
祖父を大切に考えていた大院君は、祖父を平壌の頭に任命したが、祖父は王に仕えることが最高の生きがいだと言って、離れることを拒んだ。故郷は公州だったが、生活はほとんど漢陽で送った。王の寵愛を受けて、ある時は土地ももらったが、それがケリョン山だったという。
祖父についての多くの逸話がある。鄭明析牧師は父親からこういう話を聞いたこともある。公州地域では毎年旗を奪い合う行事があった。祖父の村と向こうの村が旗の奪い合いをしたが、毎回自分の村が負けるのを見て腹が立ったあまり、1度は自分の村の旗に高宗王の印をもらってきて、旗を奪う行事を行なった。
相手の村の人々は、王の印が押されているのを見て、1人も旗を奪いに来るものがなかったので、祖父の村がそのまま勝ってしまったという。
鄭明析牧師が祖父の住んでいた村に行って聞いてみたら、その旗はしばらくの間、受け継がれていたが、今はもうなくなってしまったという。
その後、鄭明析牧師の祖父は日本の侵略の下で、明成皇后(1851~95年。高宗王の后)殺害事件にショックを受け、農地を全部日本人に奪われて、祖母や三男一女の子供たちと共に珍山面ムクサン里に移って半年間暮らした。祖母はチョンスン(大臣に相当する官位名)を得た人の娘であったが、その事実を隠して暮らさなければならない状況だった。そのような隠遁生活をしていたので生活が苦しくなり、9年間雇われ人として働いた。その当時、鄭明析牧師の父親は9歳にしかなっていない幼い頃であった。
時は日本の弾圧下、宮殿で働いていた人はみんな連行され、その身内を絶やしていた時代だったので、祖父はやむを得ずおしにならざるを得ない生活の中で、亡くなる前に父にその話を明かしたのだった。父に明かした時も、子孫が絶えてしまうことを恐れて、誰にも言わないように念を押したという。
過去に偉い官位に就いたが、そんなに大したことなのかと思って子供たちに話さなかったが、死を前にした時、あれこれいろいろなことを言い出すようになったのだ。その時、祖母も痕跡をなくすために、鄭氏の家系図を燃やしてしまい、子孫たちには家が火事になった時に家計図が燃えてしまったと伝えたのだった。
民族魂が強い祖父に似た鄭明析牧師
今日、鄭明析牧師が天の道を行くようになってからは、祖父の話が重要になってくる。祖父の血が孫の時代に流れると言われる。鄭明析牧師もやはり祖父に似て民族魂が強いようだ。
鄭明析牧師の父親は金鉱で40年間鉱夫として人生を過ごした。このように暮らしてきたので、家族はやはり山奥から出るのが難しく、貧しい村の生活を長く続けてきた。
最近の月明洞は山奥だから空気も澄んでいて水もよく、別荘のような地域だが、30、40年前は山の獣がうろうろし、原住民のような焼畑農夫たちが住んでいた地域であった。鄭明析牧師の両親はいつも「農業をして生きることが楽なんだ。土は人を騙さない。この生活は完全な生活だし、生きがいを感じさせてくれるじゃないか」と語っていた。おそらく父親も祖父の影響を受けたのだろう。
「人生を正しく生きなさい」と話された神様
山奥での生活は、労働によって全身が土まみれになって生きなければならないと同時に、あらゆる大変な仕事をこなしながら、どんなに頑張ってもまともには食べていけない奴隷のような生活であった。そのような生活であったから、鄭明析牧師の過去の人生は本当に苦痛そのものだった。それで鄭明析牧師は毎日毎日その山奥から出て行くことばかり考えていた。日雇いの肉体労働をしたとしても、電灯が少しでもつく都会のようなところならどこでもいいと考えた。田舎は人の体をボロボロにする場所だと思って、田舎から離れることを夢見て、もしかしたらと詩人のように1日に何度も空を仰いで見ていた。もしかして自分の行くべき道を示してくれるのではないかと思って。
その時は、鄭明析牧師が心を定めることができなかったので、田舎を悪くばかり思っていた。神様が今日の自分をつくるために、人生のあらゆる苦しみを経験させ、練達して下さっていたことに全く気が付かなかったのだ。人は悟ることができなければ獣のように生きるようになり、気苦労ばかりが増していくのである。
先ほど話したように、両親は鄭明析牧師に自分たちの哲学を教えて、将来の人生を示してくれたが、鄭明析牧師は都会に出て行こうという別の考えを持っていた。しかしそれでも都会に出て行くことができず、山奥に入って祈りの生活をして聖書を読んだ。聖書を読んでいると、もどかしい思いが込み上げてきて、時間さえあれば町に出かけ、人々に出会い、人生の話を語った。
夜になると洞窟に再び戻って聖書を読み、祈りながら人生を悟るようになったが、その度に神様は、人生を正しく生きなさいと隠密におっしゃった。「姿勢が正しくないと腰も体も痛くなるように、人生を正しく生きないと、あらゆる苦しみがやってくるのだ」とおっしゃった。「金と名誉、女、良家よりも人生の主人である私をもっと愛しなさい。そうする時にあなたが地上で栄え、すべてがうまく進むのだ」と鄭明析牧師の心の中に聞こえてくる声を通して、悟りを与えて下さった。そして「座って神様の声ばかり聞くのではなく、実践しなければならない」とおっしゃった。また「あなたが全身全霊を尽くして私に仕えて、変わらない心で私の御旨に従って行うならば、あなたはこの世で認められるようになり、あなたを尊敬してついてくる群れが雲のように多くなるはずだ。その時にこの話をするようになるだろう」とおっしゃった。
勤勉にいそしんで人生を学びなさい
天がまた鄭明析牧師に悟らせてくれた御言葉があった。勤勉にいそしんで人生を学びなさい、ということだった。ある時鄭明析牧師がたずねた。「私に学びなさいとおっしゃいましたが、ひとつ教えて下さい。人生をどのように学ぶのですか」と聞くと、「心を広く持ちなさい」とおっしゃった。どのようにすれば心を広くすることができるのかと聞くと、「世の中の理致を悟る時に、心が広くなり寛容になることができるのだ」、「聖書を読んで、いいと思うことを実践しなさい」とおっしゃった。そして「あなた自身の願いを叶えるためにだけもがかないで、私の願いを成すために全身全霊を尽くすならば、あなたの願いも何百倍も理想的に成し遂げられる」とおっしゃった。
鄭明析牧師はその時、私のような人がどうやって神様の願いをかなえて差し上げることができるのですかと聞くと、もう一度聖書を読みなさい、とそっと教えて下さった。それで聖書1読を数日間で終えた。読みながら、神様がすべての人を通して働いてこられたことを悟るようになった。鄭明析牧師自身もそのように生きるべきだと誓いながら祈った。「あなたが栄える道は、私の仕事をうまく成すことだ」と、主がはっきりと幻で現れて、隣りに立って語られた。
このようにして天は20余年間、鄭明析牧師に悟らせた。その時に聞いたものを4千の箴言として書くようになり、その時に聖書の正しい解釈をたずねながら学ぶようになったのだ。