朝鮮時代に、家庭百科事典であった『 閨閤叢書 』では士大夫(訳注:学者的な官僚や官僚的な学者をいう-ウィキペディアより)が食事をするとき食時五観、つまり五つを推し量ってみなさいと明示されている。
1番目、食卓に置かれたこの料理のために苦労した人を先に考える。
2番目、料理の味をあれこれ言う前に自分がこの食事をするにふさわしいことをしたのか、苦労したことがあるか考える。
3番目、心を治めて過度に欲張って食べない。
4番目、料理を良い薬と考えて形に偏って食べない。
5番目、私はこの料理を食べる資格のある正しい人なのか考える。
しかしこの食時五観の心は食卓の上だけに存在するのではない。
霊魂の食事を聞く場所ででも同じだ。
主の尊い御言葉が届くまでの主とその使役者たちの苦労を先に考え、
御言葉の味をあれこれ言う前に自分がこの御言葉を聞くのにふさわしい義なる働きをしたのか、
心を治めてたくさん聞くことに欲を出さず、
この御言葉を自分を生かす薬と考えて苦くても甘くても飲み込み、
自分がこの御言葉を聞く資格がある完全な人なのかを考えることだ。
食時五観の心で糧を取るなら、健康になり、糧の価値を悟り自分を省みる時間をもつので本当に尊い時間になるだろう。
幼いときから食卓の上で母親がいつも言った言葉が思い浮かぶ。
「これで全部食べたの?お米一粒も残さずきれいに食べなさい」
20年近く農業していた母は誰よりも食べ物の価値を良く分かっていたので私と妹にご飯を残すような振る舞いをさせなかった。
上の五つの条項をすべて推し量るのが難しければ、
尊い糧を最初から最後まで一粒も残さずおいしく食べる姿で
感謝を表現するのが良いだろう。