[エッセイ]
/人生の器/
私一人だけ使って終わる器ではなく、天が使う器になったら
どれほど甲斐があり、意味があるでしょうか。
小さなコップには小さなコップ分だけ、大きな器には大きな器の分だけ入ります。
小さな器なのに無理やりたくさん入れたら、入れたものが溢れて出て、大きな器なのに少しだけ入れたら、大きな器が合わす顔がなくなります。
よく私たちの人生を器に譬えます。
心と精神、行い、実力などそれぞれがすべて器です。
その心と行い、実力の器がどれほど大きいかによって、また何を入れて生きるかによって人生は違ってきます。
私の人生の器を顧みると、割れたものもあるし、磨いてなくて汚いものもあり、小さいけれどしっかりしたものもあります。
また何を入れているかを見ると、私の主観と考えが本当にたくさん入っています。
人生は誰でも自分の器が貴く使われることを願います。
貴く使われるためには、自分の考えどおりだけではだめなのです。
きれいでなければ磨き、洗わなければならないし、狭く小さいならば大きく広げなければならないし、割れたなら、同じ質の土で割れた部分を再び作ってつけなければなりません。
神様は私たちの人生の器を作る陶磁器の職人として、どこに使われ、どのような材料でどんな形と大きさに作らなければならないかをご存知で、その個性通りにつくってくださるから、神様の手がかかれば高麗時代の宝である青磁がうらやましくありません。
人生の器。
私一人だけ使って終わる器ではなく、天が使う器になったらどれほど甲斐があり、意味があるでしょうか。
貴い器として使われるために自分を空け、つらくとも自分を広げる作業を今日から始めます。