[エッセイ]
故郷の家で星が輝く夜は
今も私の心にピカピカ輝いている。
最近、知り合いから夜空の写真一枚をもらった。
星が輝く夜空の写真を見ていると、幼い頃、私の心をあれほどにも豊かに満たすあのおびただしい星が、故郷の家の庭の上空をいっぱいに埋め尽くしていた時が思い浮かんだ。
最近の米の作業工程を見ると、乾燥させる過程では稲を収穫した後、雨や日差しを心配することなく乾燥機に入れて乾かし、精米は精米所で大量に精米して、家のテーブルに上がる。
米を購入するのも米屋に行けば簡単に買えるし、稲作をしている家に行けば小さな冷蔵庫ほどの大きさの電気精米機から、数分で苦労もせず得られる時代だ。
しかし、私が幼かった頃の思い出の日記帳を見ると、耕運機とロープで結んだ脱穀機で何人もの人が助け合って共に脱穀する。
収穫した稲のかます(袋)を日差しのよい日に道端や空き地、大きな建物の屋上などにむしろや包装紙の材質の網や、広いビニール生地などに稲干しを何日間も繰り返す。
よく乾いた稲はかます(袋)に入れ、物置に入れておいて、天気が良く星が素晴らしく輝く日、夕飯を食べた後に、耕運機の音をいっぱいに高めて、踏み臼と耕運機を一寸の幅3メーターの長さの回転ロープで繋ぐと、踏み臼で米つきが始まる。
稲のかます(袋)から投入口に数回よそっては注ぐ。
6人兄妹が役割分担して一生懸命、掃き入れてのせたり、端から一か所に集めたりする。
数回繰り返せば腕が痛いのは当然で、休みたい気持ちが押し寄せたりもする。
しかし米をつく日は、私たちの家族にとって小さなお祭りでもあった。
甘い物が貴重だったその時期に、母はおやつとして5の市(定期市場)で買ってきた煮詰めて作った飴や、甘柿などを米つきの合間に食べられるようにしてくれた。
それを食べるために目をこすりながら一緒に米つきをしたりしていたのだと思う。
宵の口に始めた仕事が、夜中12時を過ぎて明け方1時2時に終わるが、精米の状態を見る父の判断結果によって耕運機の動く音も眠気を誘うようになる。
米俵に詰めたり、奥の部屋の横の物置にある大人の胸元ほどの高さの大きな甕に移して詰めたりすれば、仕事がすべて終わりになる。
庭いっぱいに米でできた小さな山を見て明るく笑う時には、真っ黒な顔に白い歯だけを輝かせていた父の顔はおぼろげだが、しばらくの間お米の心配をしなくていいと喜ぶタオルをかぶった母の顔は、今もまだはっきりと浮かぶ。
そしてそれなりにつらい日課を終えて布団に入れることに、ひたすら喜んでいた私たち6人兄妹。
家族皆が共にしていた故郷の家の屋根の上の夜空には、すぐにも落ちてきそうなおびただしい星が私の家を見下ろしていた。
世の中も他の誰もうらやましくなかった、際限のない豊かさが満ちていた故郷の家で星が輝く夜は、今も私の心にピカピカ輝いている。