[エッセイ]
ジョムドンは寒いソウルの貞洞道を
歩きながら分かっただろうか?
自分がこの地で女医の種になろうとは。
最近、右腕の痛みのために寝られないほどだ。
湿布を張っても意味がないほどで、整形外科の病院を訪ねた。
「レントゲンを撮るんだろうな? もしかしてMRI? 高かったら困るのだけど。」
さまざまに考えつつ待って、診察を受けた。
痛い部分を押してみて、医者は靭帯が伸びたと明快に言った。
レントゲンもMRIも必要なかった。
経験の多い「ベテラン医者」だったのだ。
注射と理学療法を受けると、いっそう腕がよくなった。
痛みから私を解決してくれたこの医学を賛美せずにはいられない。
病院で治療を受けた後、私は韓国最初の女医である朴エスターが思い浮かんだ。
韓国の最初の女医は朴エスターだが、幼い頃の名前はジョムドンだった。
ジョムドンは父について、きびしい風がびゅうびゅうと吹く寒い冬の日、
彼女の運命を変える道を歩んでいた。
時はまさに朝鮮が世界列強に、国の門を開いてから
すでに10年が過ぎた1886年の冬、ソウルの貞洞道(チョンドン)、
ジョムドンは父について梨花学堂に向かった。
韓国の最初の女学校、梨花学堂は1886年5月に開いた。
アメリカの宣教師であるスクレントォン夫人が韓国の女性のために建てた学校に、
高宗皇帝が下した名前が梨花だった。
梨花は「梨の花」の漢字語で、
梨の花のように純潔で、美しく、香り高い実を結ぶ女性になりなさいという意味だった。
しかし見慣れぬ西洋人に快く子供を預ける親はほとんどいなかった。
しかも女性が勉強するというのはよくないと思っていた時代だったので、
そのせいで校長先生は学生を集めようと
あちこち頼んで回らなければならなかった。
「お嬢さんを学校に送ってください。ただで食べさせ、寝るところも用意し、
新しい学問もお教えいたします。
また年頃になれば、お嫁さんにも送ります。」
「あなたの下心を知らないとでも思いますか?
娘たちを集めて西洋の国に奴隷として売ろうとしているのでしょう?
私どもはあなたの話を信じるほど愚かではありません。」
「絶対にそうではありません。
私は神を信じる人なのに嘘をつくことができるでしょうか?
願われるならば西洋の国に送らないという誓約書を書いて差し上げます。」
スクレントォン夫人がいくら話しても
娘を預けると言う人はほとんどいなかった。
そこでスクレントォン夫人は、親のいない孤児や、
恵まれない子供たちを学校につれて来て、
学校の門を開け、子供たちを教え始めた。
そのような中で、スクレントォン夫人はアペンセリー宣教師に出会った。
牧師であるアペンセリーは1885年8月に韓国の最初の学校であるベジェ学堂を建て
貞洞の礼拝堂で宣教活動をしていた。
スクレントォン夫人は梨花学堂に学生がやっと3人にしかならないと
アペンセリーに訴えた。
アペンセリーは自分の家で働くキム・ホンテクに、10歳の娘が1人いるから
キム・ホンテクに話して梨花学堂に送るようにすると言った。
キム・ホンテクは平凡な人で数年前まで、
娘は無事に嫁に送りさえすればよいと考えていたが、
西洋人の宣教師の家に仕事に通い始めてから考えが変わった。
西洋の新しい文物がキム・ホンテクの考えを自然に変えておいたのだ。
そのようにしてキム・ホンテクの娘であるキム・ジョムドンは梨花学堂の4番目の学生となり、
初めて親が娘の教育のために自発的につれて来た最初の学生になった。
今は数えきれないほどの女医がいるが、
たった130年前なのに、この地には女医が1人もいなかった。
1人が始めることがどれだけ大きな結果を生んだのかが分かる。
「私の痛かった腕を治療してくれた、白髪のベテラン医者が出てくるまで
この地はどのような時間を送ったのかだろう?」
小さな田舎の病院の医者に会って130年前の朝鮮が思い浮かび、
もう一度、歴史の偉大さを感じるようになった。
2017年、1つ年をとりながら、年をとったと自信をなくしたりもしたが、
何かをなす種になれるならば、
その足台になれるならば、今からでも十分遅くない。
ジョムドンは寒いソウルの貞洞道を
歩きながら分かっただろうか?
自分がこの地で女医の種になろうとは。