3文(もん)コラム by BON局長

BON局長がお届けする3文(もん)コラム!3文くらいの安っぽい文章の実力ですが・・・世の中の言葉で解いた主日の御言葉をアップします。

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それでも行きなさい!

 

 


それでも行きなさい。


  送旧迎新をしていた時に、筆者が個人的な悟りとして受けた新年のテーマは「それでも行きなさい。」でした。生きながら、「だから」行けない、「だから」行けなくなった、ということがどれほど多かったでしょうか。今年は、自分の状況や置かれた環境に関係なく、「それでも行くべき年のようだな。」と心新たに決心しました。案の定、年初いく日も経たず、「それでも行く」べきことが本当に多かったです。個人だけでなく、家庭でも、教会でも、また個人的に関与している様々なことにおいても...「それでも」行くべき状況が多かったし、「それでも」行くべきだと教えてくれる出来事も多く起こりました。

寂しくても、それでも行きなさい
誤解を受けたとしても、それでも行きなさい
卑怯で、気に障っても、それでも行きなさい
誰かが反対して、その道を塞いでも、それでも行きなさい
自分の能力が足りないとしても、それでも行きなさい
忙しいとしても、それでも行きなさい..


実際、「だから」行けない(あるいは、行かない)多くの理由は、「そのこと」あるいは「その人たち」、つまり第3者のことに過ぎません。「だから」行けないとか、「だから」行かない場合、大概、「自分の失敗」の道に転落してしまうのは、そのせいです。「犬が吠えて列車が行けなかった」と言うと、結局、吠えていた犬は静かになって、行けなかった列車だけが悪口を言われるようになるのです。「だから」行けなかったとか、「だから」行かなかった場合、結局、自分だけが損です。

  自分は「自分の道」をただ黙々と行くべきです。「大きな叫び声に驚かないライオンのように、網にかからない風のように、泥に汚れていない蓮の花のように、水牛の角のように、ただ一人で行きなさい。」仏経に出てくる言葉のように、それでも行かなければなりません。




「それでも」御言葉を証したことから始まった歴史


  どんな使命であれ、聖書に出てくる偉大な使命者たちにとってさえ、その時、その使命を果たすべき数万種類の理由があったように、本当にやめたい、あるいは諦めるしかなくさせた理由も数万種類になったのではないだろうかと思われます。

  今週の御言葉の本文(使徒行伝1:8)は、「わたしの証人となるであろう。」つまり、「宣言」して終わります。証人になってほしい、と懇請なさっているのではありません。証人になってくれたらうれしい、と希望なさっているのでもありません。ただ「なるだろう」とおっしゃいました。聖霊が臨み、権能を受けるようになると、たとえ自分の命を捨てて殉教するゴルゴタの丘に至るとしても、ただ「ついにはなるだろう」と宣言なさったのです。そして、実際、新約時代の使徒たちは、神様の目的となさったことのために死んでまで「証人」になったので、新約は偉大な歴史として残るようになったのです。

 摂理歴史も、鄭明析牧師がサムガク山にビニールを敷いて寝て、ろくに食事もできなくても、「それでも」御言葉を証なさったことから始まった歴史です。あらゆる苦難の末に自ら開拓した教会から追い出された時にも、真心を尽くして伝道した人がみな裏切って出て行った時にも、「それでも」再び証して、再び行うことで、今日まで御心をつないで来られたのです。愛する皆さん、今年は主と共に最後まで「それでも」行きましょう。



 

 



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날짜
2015/01/05