3文(もん)コラム by BON局長

BON局長がお届けする3文(もん)コラム!3文くらいの安っぽい文章の実力ですが・・・世の中の言葉で解いた主日の御言葉をアップします。

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チンギス・カンと鷹の視覚の違い

 

 


狩りを好んだチンギス・カン、自分の鷹を殺す


歴史的に最も大きな領土の帝国を建設したチンギス・カンは狩りを好んだというが、狩りの度に、よく飼いならされた友のような鷹一羽を自身の肩にのせておいて、一緒に行動したといいます。


ある日、森の中で狩りをしていた途中で、とても喉が渇いて水を探している中、ちょろちょろと流れる細い水の流れを辛うじて見つけ、杯にやっとのことで溜めて飲もうとしたところ、この鷹が急に杯を翼ではたいてひっくり返してしまったそうです。それから、何度も続けて杯に水を溜めて飲もうとする度にひっくり返してこぼし、しまいには杯までもどこかへ落として探すことが困難になると、チンギス・カンはそれ以上我慢できず、刀で鷹を刺し殺します。その後、水を溜めて飲む杯もないので、水の流れを辿ってもっと登っていき、手ですくって水を飲める場所を探そうとしました。


長いこと登っていってみると、少し溜まっている水の中に猛毒を持つ毒蛇一匹が死んでいるのを見つけます。水を飲んでいたならば、ともすれば死んでいたかもしれない状況だったのです。彼は、友だった鷹の死を非常に悲しんで、鷹を持って帰って金で銅像を作り、片方の翼には「怒って判断すると必ず失敗する」、もう片方の翼には「よくないことをするとしても友は友だ」という文句を刻み、一生の教訓にしたといいます。


ご存知の方々も多いと思われますが、今回の御言葉を聞きながら再三このお話を紹介することは、まさに観点と視覚の違いを言おうと思ったからです。このお話が悲劇に終わった究極の原因は、鷹の視覚とチンギス・カンの「視覚の違い」に由来するとみることができます。



鷹とチンギス・カンの視覚の違いによって

 

鷹は、高く飛びあがって眼下の状況をはっきりと見通しながら、水を飲んではいけないと判断したのに、これを見ることができなかったチンギス・カンは、「命の恩人」を「無礼な獣」だと誤解するようになったのでした。今週の御言葉も、このように私たちが持つ視覚の限界、思考の限界を明らかにされ、より高い次元の洞察力と認識を揃えなさいという御言葉だったと考えます。現在の状況、現在自分が直面している限界と位置で何かを判断し行い、失望し落胆して失敗しうるから、天の立場と同じようにもっと大きく見て、また広く未来を見ることができなければならないという御言葉でした。視覚が変われば見るものが変わり、見るものが変われば判断や行動も変わりうるのです。


 「コノハズクの鳴く暗鬱な渓谷、無精髪の独り身で生きて終わる人生か」と嘆かれ、大した希望もなく、人生の成功は「空の太陽をつかむこと」くらい難しいだろうと考えられた先生が、「それでも聖三位を愛することはできる」と思われ、ただ聖三位の愛を希望として熱心に生きられていたことは、天上天下(てんじょうてんげ)を見下ろされ、全てを貫き通して分かって働きかける聖三位に対する「信仰」と「愛」を土台になさったからです。 




天の視覚で私たちを導いてくださる聖三位 


愛する聖三位は、偉大なこの摂理歴史の未来をご覧になり、私たちの持つ現在の愚かさと無知を悟らせてくださりながら、希望と愛でいつも導いてくださいます。第一に、私たちの見るものと視覚が異なり、また違ったものをご覧になってご存知なので、私たちを導こうとなさる道が全く違うことがあります。

 

 

先生も、神学大学に行って「牧師」になるのだろうかと思われましたが、聖三位は聖地での修道生活を通して全く違う道、天の御言葉を伝える使役者になる道に結局導かれたのです。まさにこのようなことを正しく悟って分かる時、すぐには私の目の前に見えないとしても、御言葉を最後まで信じ、その御言葉通りに実践しながら、希望で生きることができるようになります。


今、先生が私たちにおっしゃいます。「だから希望を持って、途中で諦めないで最後までやりなさい」と。ほんの瞬間の喉の渇きで、毒入りの水を飲み干す愚かな人にならずに、聖三位の期待に外れない貴い生(せい)を生きなければなりません。


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날짜
2014/03/03