BON局長がお届けする3文(もん)コラム!3文くらいの安っぽい文章の実力ですが・・・世の中の言葉で解いた主日の御言葉をアップします。
一度、静かに自分の頭の中を覗いてみてください。
あらゆる考えが絶え間なく、しっぽがしっぽを噛んでつながっていきます。
しかし、大部分の考えは、「過去」と「未来」に関連したものであり、
「既に過ぎたことと、来てもいない未来」を考えるところに自分の心のエネルギーを浪費してしまっていることに気づかされるでしょう。
実際、過去は「記憶」であり、未来は「想像」に過ぎません。
「現在」が無い考えは、霊魂の無い体と同じように、死んだ考え、つまり妄想になりやすいです。
過去と未来は、「現在」をより良く生きるために反芻されるとか、照明を当ててみる部分においてのみ価値があるだけです。
結局、「現在」が重要です。言葉の通り、「お菓子が自分の口の中に存在する時までだけ存在」するという貴重な真理を忘れてはいけません。
春には天地を揺るがす花の香りをかぐことができ、夏には熱い日差しを全身で浴びることができます。秋の抜けるような青空は、私の両目いっぱいに写しだすことができて……。
つまり、妄想にさえ溺れなければ、この世界の「現在」こそがまさに私が「実際に体験」する最高の「天国」なのです。
仏教では、7回の輪廻(りんね)を終えて聖人の境地に入る状態を称して、「須陀洹(シュダオン)」と呼びます。
この「須陀洹」は、原語の「ソタパンナ(Sota-panna)」からきた単語ですが、世俗の煩悩を断ち切って聖人の境地に至る、その「流れに乗った者」という意味です。正しい「法」の流れに至った境地を指します。
このように、妄想を捨てれば「現実(この貴い歴史の時期、まさにこの時)」が見え、現実が見えれば当然今行うべきことが見えてくることでしょう。
虚しいものを捨て、現在自分が必ずやらなければならない意味のある事。それを行うことこそが、まさに「(偉大な真理と愛の歴史の)その流れに至った者、流れに乗った者」といえるのではないでしょうか?
淫乱にも「多神」に仕えていた事と完全に異なる、敬虔(けいけん)に「唯一神」に仕える新しい宗教歴史の流れに乗ったアブラムは、アブラハムという名に変わって、キリスト教とユダヤ教、そしてイスラム教の、三つの宗教の祖先となりました。
ガリラヤの海の漁夫だったペテロもまた、網を投げ捨て、イエスが提示した新しい歴史の流れに乗った時に初代教皇の地位に昇るようになりましたが、このことも同じ脈略をもって理解することができると思います。
だからといって、「流れ」に乗っかっていることが「無賃便乗者(Free Rider)」になっている状態を意味するわけではないでしょう。
アブラハムは、当時の最高の文明を保有した地域最高の都市で莫大な富を享受していたそれらすべてのものを捨て置き、数百人の同じ氏族と共に、生死をかけた900kmに達する長い旅程を完成させ、
ペテロ然り、十字架に逆さにつけられて死に至るまで、使徒としての長く困難な任務を終え、ついにはすべてを成し遂げました。
その反面、出エジプトを通してカナンの祝福の地に向かうという偉大な流れに乗っていたユダヤ人たちが、結局カナンに到達することができず、荒野で挫折してしまったもどかしい歴史も私たちはよく知っています。
一度流れに乗ったからといって、それがすべてではないということです。
『息をしている時までだけ、生きているのです。』
この御言葉のように、やっている時までだけでき、やらなければ何もできることがないようにしておいた天の法があるということを鄭明析牧師は強調されました。
それぞれの時に合った偉大な天の歴史の流れに乗ることは重要ですが、続けてその中において実存するためのもがき、実質的な行ないが支えとならなければならないこと。
それが重要だという御言葉でしょう。
世の中の無知で、新しい歴史の始まりは、まるで川を逆流して上っていくのと同じであるかも知れません。
逆らって上っていく流れにおいては、自分が櫓(ろ)を漕ぐのを止めた瞬間、現在の位置を維持し続けるのではなく、遠く下流の方に流されていくのです。
休まず櫓を漕ぎ、諦めない時、歴史の大きな流れは間違いなく変わり、その時になってやっと、順風に吹かれる帆掛け船のように驚くべきスピードで私たちの航海を続けていくことができるでしょう。