BON局長がお届けする3文(もん)コラム!3文くらいの安っぽい文章の実力ですが・・・世の中の言葉で解いた主日の御言葉をアップします。
「人生は生きる価値がないということを誰もが知っている。結局、三十で死んでも六十で死んでも、あまり変わりがないということも知っている。いかなる場合であれ、その後には他の男たち、他の女たちが生きていくのは同じであり、そして数千年間、そうだろう」
自分の母親の死、自分が殺害したアラブ人の死、さらには死刑になって自分が死ぬことになった時でさえ、「自分」と自分と関係した「すべてのこと」に無関心で、まるで見物人のように人生を送った小説「異邦人」(L'Etranger、Albert Camus)の主人公「ムルソー」
この「異邦人」の作者であり、実存主義哲学者だったカミュは、いわゆる「不条理(Absurdity)」という概念を確立して、「自分」と自分を取り巻く「世界」はすべて「不条理の状態」にあり、また「不条理な状況」を作っているから、この不条理な世界で弱い人間としてできることはないと考えた。
「ムルソー」の「無関心」は、まさにこうした「不条理」から出てきました。
「太陽と月と星はもちろん変わらずにその軌道を回っているが、 私にはもう昼も夜もなくなった。世界全体が私の周りで消えてしまった」
「自分の命を自ら絶つ人に卑怯だと言うのは、ちょうど悪性の熱病にかかって死んで行く人を臆病者だというのと同じで、異常なことだと思う」
若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers、Johann Wolfgang von Goethe)の主人公ウェルテルは、自分のすべての夢と希望を恋人であるシャルル・シャルロッテにだけかけたため、その愛が挫折すると自分の命を自ら断ってしまいました。
ウェルテルの悩みは、若さの熱情と成されることのない愛から始まったのだと言いたかったのかもしれないけれど、それはむしろ「執着」に近いように思えます。
「異邦人」「若きウェルテルの悩み」この二つの古典は、文字通り不朽の古典です。東西古今を問わず、多くの共感を得ているのは「私」と「私を取り巻く世界」(環境)を眺める「観」を提示してくれるからです。
筆者も「私」と「私を取り巻く世界」(環境)について「無関心(ムルソーの人生)」であったり、そうでなければ、特定の他者(the other、それが異性に対する愛であれ、お金であれ権力であれ…)に対して「執着(ウェルテルの人生)」する人生…ともかく「ムルソー(無関心)」や「ウェルテル(執着)」の間そのどこかで生きていたのではないだろうかと考えてみます。
(「無関心」の人生であれ、「執着」の人生であれ、結局は「虚無」として終わってしまったでしょうが…)
「私」や私を取り巻く「環境」(世界)に対して「無関心」であったり、「私」も失ってしまうくらい特定の他者に「執着」するのは、「私」と「世界」に対して深い悟りがないことに起因するものと見ることができます。
「草一本が大きくなるにも、全宇宙が回らなければならない」
神様が創造したこの完璧な世界は、決して不条理で「無関心」に見るべきではなく、感謝と感激で接する対象であると同時に、だからといって草一本に「執着」する愚かさで終わらせるべきでもないことを現わしています。
草一本のためにも全宇宙を運営している神様の前で「人間」がどれほど貴重な存在でしょうか。また全宇宙がそのように動いているのに、自分が極めて小さい被造物の一つに執着して生きていいでしょうか?全宇宙が作られ、「私」のために運行されているのならば、果たして「私」はどうやって生きるべきなのか…
鄭明析(チョン・ミョンソク)詩人の「私」という詩は、この問いに対して見事に答えています。
ひとかけらの船に
千年の夢を乗せて
「私」は日々に希望で櫓をこぐ
ひとかけらの船にでも、千年の夢を乗せて生きなければいけないし、
千年の夢を乗せて旅立つ主体は、明らかに「私」です。
この身をもって
私のために、家庭のため、
民族のため、世界のため、天宙のために
未練なく使っていこう
私だけでなく、家庭や民族、そして世界と天宙のために生きるべきであり、そのために使用する道具は「この身」です。
千年の希望を叶える主体であると同時に、手段としての「私」
これは事実、釈迦が提示した「天上天下唯我獨尊」の概念と通ずる「私」です。
鄭明析(チョン・ミョンソク)詩人は、この「私」を、「神様と私は1:1」という御言葉を通して解いて下さりもしました。
「神様」と繋がっている「私」こそ、真の天上天下唯我独尊の実体です。
そして神と繋がる時はじめて「私」と「世界」についてその貴重さを十分に悟って、分かって、毎日貴重に思って、未練なく使って享受することができる人生になるでしょう。