BON局長がお届けする3文(もん)コラム!3文くらいの安っぽい文章の実力ですが・・・世の中の言葉で解いた主日の御言葉をアップします。
それ自体が持つ意味を超えて、特別な要素がその中に内在している「言葉」と「文字」
初めに「言(ことば)」があった......
この「言(ことば)」が神様と共に天地万物を創造しました。(ヨハネ1:1)
「言(ことば)」つまり「言語」によって始まった歴史は、「言語」つまり「言(ことば)」によって完成することが分かる御言葉です。
天地万物が「言語」によってつくられたので、もう一つの被造物である人間も「言語」、「言葉」の支配を受けることは火を見るよりも明らかな(明若觀火)事実です。実際、人間の観念と思想はほとんど言語によって形成されますし、人間相互間の関係形成にも言語を使用します。つまり、どのように「疏通」するかという問題が、最も重要な要素として作用すると言えます。ヨハネによる福音書第1章1節は、歴史は「言葉」の歴史であり、すなわちつくった方と被造物の間の「疎通」の歴史であると解釈できるかもしれません。
これほど重要な「疎通」は、大部分「言葉」と「文字」を通して成されますが、真の疎通は「言葉」と「文字」を超越することができる時に成されるものでもあります。たとえば、私たちがレストランで注文した食べ物を食べている際、食べていた食べ物の中に髪の毛を発見したとしましょう。すぐにオーナーを呼んで「食べ物から髪の毛が出てきた。」と言うでしょう。それなのに、オーナーが気にしないで「はい、お客様の食べ物に髪の毛が入っていますね。その通りです。それで?」と聞き返すとしたら、どんなことが起こるでしょうか。
このように、私たちの「言葉」と「文字」は、それ自体が持つ意味を超えて、特別な要素がその中に内在しています。「食べ物に髪の毛が入っている。」という言葉は、その「事実(Fact)」を伝達しようとするものではありません。その中には「私が食べた食べ物になんでこんなものが入っているのか?本当に気分が悪い。」という感情(Feeling)の言語が内在しています。オーナーに「髪の毛が入っている事実」を知らせてあげようとして言ったのではありません。
そして、この「気分が悪い」という感情は、最初にこのレストランに入って料理を注文して食べようとした時に、正当な値を支払い、その対価として「清潔でおいしい料理を楽しみたい」という「欲望(Want)」を満たそうとしたことにおいて挫折したことに起因するものです。「望んでいたこと」を得られず、当初の期待が外れたことに対してむっとした感情が生じたのです。
「愛」する時のみ可能な疎通
同じ雷の音を聞いても、ある人は「私の罪のせいで天が怒っていらっしゃるのだろう」と恐れ、また別の人は「これから私があなたと共にしてあげよう」と大きな勇気を吹き込む天の声だと考えて力を得るとおっしゃいました。普段の「考え」と「行動」が、他の人々はその「感情」や「欲求」が違うので、同じ「言葉」を聞いても、互いにその解釈が異なるのだと話してくださいました。
つまり真の疎通は、伝えようとする「言葉」と「文字」の中に込められた話者の「感情」を理解し、さらに話者の本当に「望んでいること」が何なのかを理解して初めて、きちんと始まるのです。仏門では、これを以心伝心とか不立文字(ふりゅうもんじ)という概念を使って、「言葉」と「文字」では物事のありのままの姿を伝えられないと主張しているのがこれと同じです。
釈迦が霊鷲山という所で説法していた途中、突然何も言わずにただ蓮の花一輪を手に取り、大衆に見せました。皆が当惑していると、摩訶迦葉(まかかしょう)という弟子だけがその意味を悟ってかすかに微笑んで見せたそうです。それによって、釈迦が摩訶迦葉に仏教の深い真理を伝授したことから生じた表現が、すなわち拈華微笑(ねんげみしょう:花をひねって微笑む)です。
このように、真の疎通とは、その人の「感情」を理解して、「本当にその人が望んでいること」が何なのかを分かり、それを成し遂げる過程で完成するものだと言うことができますし、これは結局「その人」をまことに「愛」する時のみ可能になります。まさに天の言葉をよく理解するためには、「天をまことに愛しなさい。」とおっしゃった御言葉です。
ウォルミョンドンのラクダ岩、御子石、、、
石が叫んで証する声をしっかり聞くことができなければなりません。その声によって天に向かって拈華微笑をする私たち皆になることを祈ります。
Translated by Akashi