BON局長がお届けする3文(もん)コラム!3文くらいの安っぽい文章の実力ですが・・・世の中の言葉で解いた主日の御言葉をアップします。
なぜうちの教会は宣教がうまくいかないのでしょうか?
なぜうちの教会は宣教がうまくいかないのでしょうか?
最近筆者は、いくつか御言葉を聞いて、これ以上は御言葉を聞かないという二人の新入生に会いました。 「なぜこの御言葉を聞くべきなのか分からない。」というのでした。
問題は「なぜ」です。
今日の若者たちは、ヨシュア戦争の当時、太陽がとどまった出来事の真偽はそれほど気になりません。自分の目の前に見える就職戦争で自分が就職(勝利)できのるかが、はるかに重要で緊急な問題です。天国に黄金の宝が山のように積まれていることに大きな望みを抱きません。現実に金の指輪一つ得ることが、もっと感謝し、喜ぶことです。
今週の御言葉の中に出てきた例え話で、いくら捕まえて自分の家の庭に放してあげても続けて逃げていくリスに「なぜおまえがここで暮らすべきか。」つまり、時に合わせて安全な餌を供給することができるという事実を明確に認識させてやる時、自分だけでなく、自分の家族をみんな連れてきて、家の庭に穴を掘って居座って暮らしたという話がありました。
また、通りがかりの王妃が草を刈っている人に「どうして(Why)草を刈るのか?」と訊き、それに関する合意(Consensus)が成立した後で、「どのように(How;草を抜いて、花を植え、石の造景をつくる)」と「何(What;別荘)」をつくるかが決定されますが、この時、草を刈っている人が王妃の体になって、王妃と長い間その仕事を「一緒に」行うことができたということを記憶しなければなりません。
宣教が「うまくいかない」問題の原因の一つを、「なぜ」に関する明確な合意を前提とせずに、「どのように」と「何を」に集中している宣教現場の「教育と講義」から見いだすことができるかもしれません。御言葉が時代に合わない服を着せられている現象が教育現場で起こっていることが根本的な原因かもしれません。
御言葉を「うまく」伝えることもとても重要だが、「うまい」御言葉を伝えることがもっと重要である
では、 果たして「御言葉」に問題があるのでしょうか?
全くそうではありません。
主と一体になってその方の肉になって働くということは、天の御言葉を同じく「うまく」伝えることだとばかり考えていますが、実は御言葉を「うまく」伝えることもとても重要ですが、「うまい」御言葉を伝えることの方がもっと重要なのです。
結局、御言葉を聞く人たちに対して「なぜこの御言葉でなければならないのか?」「これが『一人一人』の生活にどのような意味があるのか(WIIFM; What's In It For Me)」を正確に提示することが切実に必要だということです。まさにこの点が、天が私たちの「体」を必要とする部分です。
「Why-How-What」の方法でアプローチすることは、「必要性」を感じさせること
なぜ宣教ができないのか?
結局、聖三位が自分の体を使って、自分を通してその仕事をなさることができないようにしているからでしょう。「私があなたの体を使って、あなたを通して私の仕事をできるようにしなさい。」という御言葉がまことにどういう意味なのかを知って、これを「正しく」行うことができるとき、「私が一緒に暮らすことができる。」という貴い祝福が現実になるでしょう。
「正しく」というのは結局、生命一人一人に対して、「Why-How-What」の順に、天の御言葉を各個人に伝えてくださる御言葉として「パーソナライゼーション(Personalize、Customize)」してのべ伝え、真に貴い御言葉であることを悟らせてあげられる時、この偉大な御言葉が正しく一人一人の心に1兆千万金を超える価値のあるものとして理解され、受け入れられるでしょう。
iPhoneを作っているアップルという会社は、「なぜ企業を運営しているのか(Why;人々に常に新しい挑戦をさせるために)」を明らかにして、「どのようにこれを助けるのか(How;適正価格ですばらしいデジタル世界を営めるように)」について悩み、「何を作るのか(What;様々なデジタルデバイス)」を決定します。「今すぐ何を(What)どのように(How)作って売るべきか」を悩んでいるメーカーは、アップルに追いつくのが難しいでしょう。
一人一人に「Why-How-What」の方法でアプローチすることは、「御言葉を聞きなさい、聞きなさい。」と言うからといってできるのではなく、「必要性」を感じさせなければならないという先週の御言葉とも通じることです。改めて強調するとしたら、時代の御言葉を自分が会っている一人一人にそれぞれの状況に合わせて伝えること。まさにこのようなことが天が「自分の体を使って自分を通してその仕事ができるように」してさし上げる方法の一つなのです。
天の助けによって私と対話を交わした二人の新入生は、再び御言葉を聞くことにし、さらに「最後まで」聞いてみるという約束までしてくれました。