BON局長がお届けする3文(もん)コラム!3文くらいの安っぽい文章の実力ですが・・・世の中の言葉で解いた主日の御言葉をアップします。
果たして人間の「歴史」に目的はあるのでしょうか?
歴史の目的、その有無について、あるいはそれが何なのか、畏れ多くも一体誰が語ることができるでしょうか?
たとえ何者かが定義したからといって、それが真実か否か、誰も確認する方法がないような、そのようなものです。
ただ、非常に枝葉的で、極めて制限された一定期間内、「歴史の目的」が暫し存在していると錯覚することはあり得ますが、人間の認識(能力)では、人類の歴史はただひとりでに(Neutral)流れていくものとして観察するしかない領域に近いです。
さまざまに革命やら革新やらを掲げながら、まるで「目的」を知っていて、その目的達成に向けて加速度を高めているかのように見える事をやっているとはいいますが、この歴史は、セミの幼虫が這って行く速度よりも遅く、そして「人間」を完全に圧倒する巨大な流れによって滔々(とうとう)と淀みなく私たちのそばを通り過ぎていっているばかりなのです。
2千年前、エホバの降臨を待っていたユダヤ人たちには、彼らの歴史の目的が非常にはっきりしていると感じられていたことでしょう。まさしく、ローマから「民族解放」されたこと。それが、彼らの歴史の重要な目的でした。そして、この目的がエホバの目的と同じであるだろうと期待していました。
彼らのもとに、ある日一人の青年が現れ、彼に多くの群衆が聞き従っているのを目の当たりにした宗教指導者たちがその青年のところにやって来てこう尋ねます。
『カエサルに税金を納めるのは正しい行いですか?』
『カエサルの物はカエサルに、神様の物は神様に…』
「カエサルの物はカエサルに与えよ」というメッセージは、ローマからの解放のために闘争を促すものではなく、ローマの植民地体制を認め、許容した発言として解釈されたことでしょう。
この一言で、「イエス」は決して彼らが待っていたメシヤ、彼らの歴史の目的を成してくれる人ではないということを確信したにちがいありません。イエスは、ユダヤ民族が直面した「短期的現実」と、それによる彼らの「目的」にまるで関心すらなかったかもしれません。「カエサルの物(肉的)」と「神様の物(霊的)」を厳格に区分し、肉的な物には関心を置かなかったということです。彼の関心はすべて、「ただその国とその方の義を求めること」にあっただけでした。
実際、人類の歴史の目的を語ることのできる唯一の存在は、ただ創造主であられます。
天の観点において、人類の歴史は非常にはっきりとした目的があります。
137億年前に宇宙を創造し、6千年の宗教の歴史としてつながってきた、まさに「創造の目的」がそれです。
皆が知っているように、天の愛(人々が天の対象体として永遠に天を愛して生きること)を完全に成すことです。「愛するがゆえに」、この「愛の目的を成すために」、天は『御言葉』を与えてくださるのです。また、この『御言葉』が肉体となった「遣わした人」を遣わしたということが最も効果的に歴史の目的を成す最先端の方法であり、それ自体が驚くべきしるしなのです。
しかし、旧時代の宗教人たちは、「天の立場からみて、天の御旨とその目的を成すメシヤ」ではなく、自分たちの認識の次元通り、「自ら定めた自分たちの目的を成してくれるメシヤ」を待つばかりだったのです。
露骨に表現するとすれば、「自分の口に合う」メシヤを待っていたということです。
言い換えるなら、メシヤはただ天の国とその義を成すために、上から遣わされた人です。また、メシヤを遣わす時期と方法においても、「天」は「人間」と少しも妥協したり相談したりする意思がおありでないことを間違いなくいっておかれました。「あなたたちが『これこれこういうことをしたら』遣わそう」、あるいは「『ある条件を立てたら』遣わそう」などとはおっしゃいませんでした。誰も知らない時、さらにはその「息子」さえも知らない時に、一方的に遣わしてくださるのだとおっしゃいました。
メシヤ(遣わした人)と関連して、私たちはただ謙虚に天の御旨を受け入れるだけであって、別の選択の余地はありません。結局、待っている人たちにできることは、知って「受容」したり、わからなくて「拒否」したりすることしかありません。
鄭明晰牧師が聖誕のメッセージを通して伝えてくださったように、天がメシヤを遣わしてくださっても「わからなければ何の意味もないこと」なのです。
ただわかった人たちだけがその方を喜びで迎え、信じてその方に聞き従って創造目的を成していく、「人間」を超越した偉大な歴史の流れに乗っていくだけなのです。