BON局長がお届けする3文(もん)コラム!3文くらいの安っぽい文章の実力ですが・・・世の中の言葉で解いた主日の御言葉をアップします。
満足度(あるいは失足度)=経験値/期待値
あることに満足したり、あるいは失望する程度が決まるのは、その人が持つ'期待値'とそれに対する実際の'経験値'によってです。
例えば、銅メダルを期待していた(期待値)人が銀メダルを取れば(経験値)、満足度は高いけれど、金メダルを期待していた人なら"失足(失望)"するようになるのです。
ところで、この"期待値"というのは、自分が"したこと"に対する個人的な評価に基づいて生じるものであり、"経験値"もやはり客観化しにくい、非常に主観的な事実であることに留意して考えなければなりません。
期待値と関連して大体の人々は、粟ほどの苦労をしてスイカほどの期待をします。
経験値についても同様に、"スイカ"をもらったとしても、自分の"粟"のような関わりは忘れてしまい、もらった"スイカ"について、自分の主観的判断に従って良し悪しを決めようとします。
鄭明析(チョン·ミョンソク)牧師が話した御言葉通り、"人によって経験することも異なり、考え、水準が異なるから、すべて自分の生に従って、自分の水準に従って、自分の考えや行ないに従って"満足"と"失足(失望)"が多様に起こる"のです。
結局、満足度(失足度)を求める公式において、最も決定的な"変数"は自分の"考え"になるのです。
この点で、"考え"を誤ると、続けて誤った期待値を生成し、また現在の経験値に対して誤った評価をするようになるので、続けて失足(失望)する確率が高くなるのです。
だから失足(失望)しないためには、"考えをよくしなければならない"のです。
結論として、この"失足公式"によって、失足(失望)感のない、満足した生を長く維持するには、"考え"において自分の期待値を合理的に調節し、現在の自分の経験値に対する評価をしっかりすれば良いのです。
自分の"期待値"を合理的に調節することに関わった徳目は"謙遜"です。
実は、私たちの人生は神様の絶対的な助けよって維持されるものです。95%は天が、残りの5%程度が自分の責任分担。
それで決まる私たちの人生です。
"私がしたこと"に対する評価が行き過ぎ、ややもすると"傲慢"になるようになると、あきれた期待値となり、さらには聖書の表現どおり"敗亡の先鋒"に立つことになるのです。
高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ。(箴言16:18)
"失足(失望)"と繋げて"敗亡"を定義すると、"間違った期待値によって天を誤解し、恨み、結局、天から遠ざかるようになる"と言えるでしょう。
次に、経験値に対する価値を高めることに関する徳目は、"過ぎ去った日々の経緯を忘れず、ただ感謝し感激すること"です。
自分が経験しているこの全てが、神様の許可して下さったものなのに、1つ2つだけの失望する'経験値'を、針小包大しながら天を恨み、寂しく思います。
これと関連し鄭明析牧師は、モーセの時のイスラエルの民たちの事例を提示されました。
"モーセを通してうんざりするエジプトの400年の奴僕暮しを逃れることになった時、神様は様々なしるしを見せました。
パロ王がイスラエル民族を手放すしかないように働きかけて下さり、劇的に出エジプトをしたし、数多くのしるしを直接見て経験し、神様が共にして下さることを希望にして生きていけるようにして下さいました。しかし、民たちは多くの神様のしるしは忘れ、1つ2つの失望することにぶつかってモーゼに失足(失望)し、神様に失足(失望)しました。
だから自分たちの生に関しても失足(失望)してしまいました。いくつかの失足(失望)のために、神様がそれほどまでに御心を置いて行なわれたことを完全に喪失してしまいました"。
失足(失望)させるのは、主を信じて従うことにおいて、とても恐ろしい"罠"のようなものだとおっしゃいました。
そしてこの罠は'自分自ら'、'他人によって'、'神様と関連して'、この3つくらいに区分できるけれど、これはそれぞれ独立的に作用することもあるでしょうが、大抵の場合、相互連動して私たちの力を奪い、ついには信仰の死に至るまでにしてしまう恐ろしいものです。
この"罠"にかからず、自由になるためには、過ぎた日に神様と聖霊が、自分の生において経験させて下さったしるしと愛、恵みを中心にして、謙遜に、そして感謝と感激で続けてそのことを行なうことです。
そのようにさえすれば、失望することが'台風のように押し寄せて来ても、すべて打ち勝ち'、失足(失望)しない人生、本当に満足できる人生を送ることができるようになるでしょう。