3文(もん)コラム by BON局長

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英雄烈士も結局『たくさん行なった人』

 

 


偉大な英雄かつ素晴らしい偉人、李舜臣将軍


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李舜臣将軍[出所:ウイキペディア]


300隻を超えるとてつもなく多くの敵の前で
「臣には『まだ』12隻の船が残っているので...」


と言うことができた熱い『情熱』が今年の夏の暑さを吹き飛ばしてしまったかのようです。
韓国は『鳴梁』という映画の興行の勢いが台風を超えています。


李舜臣将軍、彼は一体どんな人だったのでしょうか。
映画にも出てきますが、当時、実際に李舜臣将軍と対決した敵将脇坂は李舜臣について次のように語りました。


「私が一番恐れている人、一番憎い人、一番好きな人、一番尊敬する人、一番殺したい人、一番一緒にお茶を飲みたい人」このように語りました。


今日まで脇坂一族の子孫たちは、李舜臣将軍の誕生日には韓国を訪れ、彼を参拝しているそうです。


朝鮮に派遣されていた明の使臣は、将軍が15歳の倭軍の捕虜に『明心寶鑑』の中から『孝行編』を読んでやる場面を目撃した逸話を次のように紹介しました。


『10 歳で捕虜になったから、もう5年経った倭軍は朝鮮末まで学んだ。互いに殺し合う戦争で、あの二人をどうやって敵と言うだろうか!私が見たあの二人は朝鮮将帥対倭軍ではなく、一人の父とその息子に見えたのだから、彼の民を重んじる心はどれほどだろうか!』 


1990 年、中国で日中の歴史家たちが集まって非常に特別な合同研究会を開いたそうです。ほかならぬ韓国の「李舜臣」がそのテーマでしたが、この研究会で壬辰倭乱当時の状況設定で模擬戦争を実施してみたところ、もし李舜臣が日本の将帥だったら、当時、明はもちろん、タイ、ベトナム、アジア大陸全体が日本の領土になっていただろうとの結論を下したそうです。


また、東北工程という歴史歪曲を先導していた中国のチャン・ウェイリン教授は、過去、清を手に入れられる唯一の英雄を選定するシミュレーションを行ない、朝鮮の李舜臣だけが清を手に入れられる唯一の英雄だったであろうと発表をして、偉大な英雄かつ素晴らしい偉人に接したその感動によって、東北工程の作業に参加した自分の姿を自ら恥とし、直ちに東北工程の作業から退いたそうです。


懲毖録を読むと、李舜臣将軍が閑山島にいた時、運籌堂という建物を建て、昼夜、戦闘について研究していましたが、どんなに地位が低い兵士だとしても、参加して自分の意見を楽に話すことができたとあります。陣中日記でも、彼は訪ねて来る側近の将領たちと公事について議論しながら、夜明けに鶏が鳴く声を聞いたとあります。


後にも東軒(訳注:昔、地方官庁の長が公務を処理した広間)に赴いて執務をしながら、民たちの生活を顧みる仕事も怠らず、愛民の精神を実践し、隙を見つけては幕僚たちと弓を射て武芸を鍛えたり、陣中生活の中でも美しい詩歌をつくって詠んだり、カヤグムの弦を張りながら音楽鑑賞に心酔したりしたそうです。日記の内容自体も当日の天候、夢見についての内容、母を慕う気持ち、激しい正義感と鬱憤まで細かく記録として残したものでした。優れた戦略家、分析家でありながら文学家でもありました。




『たくさんの仕事』を行なって、しるしを起こした


必死即生の精神を持って、本当に「たくさんの仕事」を行なって、しるしを起こした偉人です。ほとんどの戦争の英雄たちは、血に染まった剣を掲げて見せることで、自分を仰ぎ見させます。しかし、李舜臣将軍は、自分の心情で流した血を見せて、私たちの頭が下がるようにします。だから「聖雄」と呼ぶのでしょう。


戦争の砲火の中で「愛しなさい!」という天命を守ることができた、「これ以上できないほどたくさん行なって一目瞭然にしるしが起こるようにし、私たちの問題を解決」してくださったもう一人の偉大な人物。その方の陣中書信に関する話も世界中に知れわたり、一層熱く、私たち皆の胸を温めることになるでしょう。


 

 


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날짜
2014/08/07