BON局長がお届けする3文(もん)コラム!3文くらいの安っぽい文章の実力ですが・・・世の中の言葉で解いた主日の御言葉をアップします。
自分を否認することは容易ではないことです
『自分を否認することは容易ではないことです。誰かが私を叩いても「ウアッ!」といって痛いという声すら発しないということ。そのようなことが、自己否認です。』
最近、月明洞修練院長がおっしゃった自己否認についての定義です。
簡単に言うと、『自己否認』というのは、『死体』のように『死んだ。』といって生きなさいという御言葉かも知れません。まさに今週の御言葉『自分と戦って勝つこと』が、聖書上の表現で『自分を捨て、自分の十字架を負うて、主に従うこと』と言えるでしょう。
この点で、『自己否認』、『自分に打ち勝つこと』は、使徒パウロの『私は日々死んでいる。』という言葉とも通ずる御言葉です。『自身』が自ら自分を『殺す』くらい激しく戦わなければならないということは、自分の中に存在する互いに『違った』二つの考え(二つの法)のせいであると、今週の本文の御言葉を通して教えて下さいました。このように、自己否認とは、自分の矛盾を全て無くす境地を成すということだから、決して容易ではないということに間違いありません。
‘間違い’と‘違い’の混乱
自己否認がこのように難しい理由は、‘違い’と‘間違い’の区分をハッキリすることができない人間達の愚かさから起因したことであるかもしれません。この‘相違’は、言葉通り‘違い’(Differet)’であるかもしれないし、‘間違い(Wrong)’であるかもしれません。‘間違った考え’を持っているのだから、自分は‘違ったこと’だと自己否認するどころか、周りの人達に対して‘違い’を認めず、多様性に欠ける前近代的な思考方式だといって非難する立場になった人達もかなり多いように思えます。その反面、‘違った’ことを‘間違ったこと’だと頑と主張して食って掛かる人達も多いです。摂理歴史は、‘間違ったこと’ではなく、全く‘違った’歴史なのに、‘間違った歴史’だと誤解し、迫害する場合がこれに該当することなのでしょう。
‘間違い’と‘違い’の混乱、ともすれば使徒パウロの生はそれらと戦う生であったのかもしれません。
間違った歴史だと誤解して、それほどまでにキリスト教の迫害の先駆けとなっていた彼が、ダマスコ途上で主に会った後、キリスト教が ‘間違った’歴史ではなく、既存とは全く‘違った’天の新しい歴史であると認識し、‘改宗’するという大きな戦いをしなければならなかったし、その後も数知れぬ‘間違い’との戦いをする、それこそ‘善なる戦い’が連続した生でした。
しかし、使徒パウロは常にその‘戦い’から来る‘困難’を自慢したし、むしろその困難を‘使徒’になった証だと力説しました。彼における外部的に、或いは内部的に絶えず繰り広げられる‘違い’と‘間違い’の間での厳しい戦いは、永遠な命の冠に向かう競争だったのです。
私たちの戦いは‘金メダル’をめざして戦う戦い
実は、‘違い’なのか、‘間違い’なのかを正しく判断するのは非常に難しいことです。
だから‘ひたすら神様の御心通りに’生きようといいながら、‘自分の考え通りに生きる者が90%’という御言葉まで下さいました。ただ聖三位だけが、唯一‘善’と‘悪’の間の‘裁き(審判)の主’になられるということを聖書に確かに記録しておかれたことを私達はよく知っています。だから、天が下さった時代の御言葉こそが、違ったことなのか間違ったことなのかを区分することができ、更にこの時代を正しく分別できる最も重要な物差しになるのです。
天下を平和にすること(平天下)も、自分の体一つを磨くこと(修身)から出発することだとおっしゃいました。
自分の中の‘間違い’を徹底的に否定し、‘自分(肉に属した考え)’と戦って勝ち、いつも‘御子主(霊に属した、御子の考え)’を手に入れ、ただ聖三位に属した御心だけを自分の生の中で実践していく貴い生を生きなければいけません。また、もっと感謝しながら私達の戦いをするのは、私達の戦いは‘金メダル’を目指して戦う戦いであるからです。